夢と詩情のアニマ

~プリズムの煌めきが生まれる場所、あるいはその墓場

人類の業と希望

ドラえもんの2017映画「のび太の南極カチコチ大冒険」を見たとき、私は感激にむせび泣いていた。

 

何故か。

ついにオールドファンを唸らせる傑作が誕生したと確信したからだ。

 

いわゆる「わさドラ」になってから、名作傑作のひとつに並ぶべき作品がなかったわけではない。

のび太の恐竜2016は新時代の幕開けを告げる素晴らしい映画だったし、

新鉄人兵団の素晴らしいアレンジは旧作を凌ぐものがあると思う。

また他方、新大魔境の執念ともいうべき完コピは記憶に新しい。

オリジナル作品についても、秘密道具ミュージアムでは「のび太ドラえもん」の関係に集約することで「わさドラ」としての決定打を見せたし、

あの緑の巨人伝だって色々の問題を孕みつつも意欲作として語り継がれるべき作品だと思っている。

 

しかしそれらはすべて、偉大な遺産を食いつないでいるか、もしくは新大陸へと移住することでそこに新たな国家を作ろうという行為であった。

そこには我々「大山のぶ代の世代」と「水田わさびの世代」の断絶があったし、それは致し方無いものとして、この10年ほど、概ね受け止められてきた。

 

果たしてこの「南極カチコチ大冒険」は違う。

これは紛う事無き【大長編ドラえもん】の新作だ。

 

かき氷という不思議な食べ物を知ったとき、カーラは言う。

 

「なんでも食べちゃうのね。貴方たちならブリザーガも食べちゃうんじゃない?」

 

そうだ、私たちはこの世界の全てを食べて、利用して、そして生きていく。

きっと古代人たちもそうだったにちがいない。

 

「星をまるごと凍らせて、強制的に生物の進化を促す」

 それは神の所業だ。

 

かつて南極に都市を作った古代人たちは、計画を直前で中断した。

それは自らの傲慢さを顧みたのか、仲間割れによるものか、それとも単に怖くなったのか。

それは分からないけれど、今を生きる私たちは考えなくちゃならない。

人類だけが持つ、自分の生きる環境を変える力、・・・それは自分の身の回りの掃除洗濯などのミニマムなことから、テラフォーミングまで、その科学の力を、なぜ我々は持っていて、そして何に使うべきか。

この星に夜が来る前に。 

 

地球は、今ふたたび氷河期に向かっている。 

 

 

(こちらの記事は2015/5/15にほぼ完成状態で下書きして、何やかんやで投稿を忘れて放置してしまったものを少し修正したものです)

アイドルタイムプリパラとアイカツスターズ、ふたつのリスタート

2017年、春。いつもの番組改編期である。

しかし我々女児アニメを愛する民にとって、今春は次世代まで語り継がれるべき激変の春と言えるかもしれない。

 

なんといってもプリパラとアイカツスターズ、両作品の前身であるプリティーリズムアイカツの時代からここ数年間女児アニメ界をけん引してきた二つの作品が、それぞれの語るべき物語を高らかに謳いあげ、そしてその大団円の興奮も冷めやらぬうちに同時に再び大海原に出港したのだ。

 

そしてそれはまたしても真逆のアプロ―チだ。

この二者の関係はほんとに面白い。

目的は同じ「自身の筐体ゲームを流行らせること」なのに、やっていること、やりたいこと、そしてやるべきことがことごとく真逆で、

しかもそれぞれ正しい。

 

各話の直後に呟いたツイートから、具体的に語っていこう。

 

 

まずはプリパラ。

世界観を引き継ぎつつ新たな街に舞台を移してのリスタート1話目。

新主人公である夢川ゆいを神アイドルとなった真中らぁらが導いていく・・・話なのだがそこはプリパラ、そう単純ではない。

 

なんと新プリパラは未だ工事中(?)の閑散とした空間であり、完全なるゼロからのスタートを強いられる。

そもそも新たな舞台パパラ宿では男子プリパラその名もダンプリがトレンディであり女子がアイドルをやるという文化そのものがない上に、校長はどこかの誰かさんを彷彿とさせる超管理主義者にして前時代的な「清く正しい女子」の保守者(のちにダンプリオタクだと判明)。 

さらに当のらぁらはプリチケのバグによりプリパラチェンジ後の姿になれなくなってしまい、そのためパパラ宿での唯一のプリパラ同志であるはずの夢川ゆいには誇大妄想癖(おまいう)だと舐められる始末。

 

 このように神アイドルにまで上り詰めた真中らぁらを、ちょっとずつ身動きとれない状態にして強制的に「主人公としてのふりだし」にもどしてからアイドルタイムプリパラの物語ははじまる。

これによって神アイドルグランプリを経たあとのれっきとしたプリパラ4期でありながら、「アイドルタイムプリパラ」は新番組として始まることができたわけです。

これが実にうまい。

 

 

もしもらぁらが神アイドルとしてパパラ宿に迎えられたなら、ゆいとのコンビは少なからず師弟関係となっていただろう。

それではいけない。プリパラで描かれる関係性は対等なトモダチでなければなりません。

そこで最初はゆいにらぁらを舐めてかかってもらい、共に穴を掘る(意味深)ことで友達としての関係を構築してもらう。

そしてそのあとすぐに神アイドルだったことは知れるわけだが、その頃にはゆいのキャラクターも十分浸透していて、今更らぁらへの態度を変える子ではないことは我々視聴者は分かっているという寸法だ。

 

こうしてたった2話でW主人公体制が構築されて、いつの間にか新しいパパラ宿でのらぁらの活躍に説得力がついている。なんということでしょう。匠と言わざるを得ません。

 

 

 

さて、アイカツスターズはどうかというと、こちらもまた凄い。

こちらは四つ星学園のトップ、S4に就任した虹野ゆめが、海の向こうからやってきたアイドル海賊エルザに打ちのめされ、そして武者震いをするというところから物語を再開する。

それはまさに黒船来航であり、今までの常識を覆す事件だった。

 

[https://twitter.com/halukuku69/status/849926584601464832:embed#「ゆめの夢はS4になること」ではその夢が叶ったら?ある程度この問題を出して来ると思っていたが、

 

まさかここまで徹底的に井の中の蛙に過ぎないと叩きつけるとは思わなかった。しかし不安はない。なぜなら彼女らは大海を前に怯む蛙たちではないからだ。 #aikatsu]

 

アイスタがとったのは「更なる強敵」路線だ。

そこでは今までの四つ星学園でのアイカツは通用せず、「お前らのは甘ちゃんサッカーなんだよ」(by日向小次郎)理論で一度は叩きのめされる。

しかし続く52話で見事な逆襲に転じることで、ゆめの力は今までのアイカツに根差していると示される。それはアイカツスターズの1年目がけして無駄ではなかったことを教えてくれるが、しかし同時に、ゆめの立つ寄りべとなる四つ星学園は、彼女の枷となるかもしれないとも暗示されている。

 

 

アイカツスターズは今までの物語に上層を加える事で、ゆめの新たなはじまりとしたのだ。

それはもう四つ星学園だけのアイカツには戻れない事を示してもいる。

ゆめはもう、未来に向かっていくしかない。

 

対してプリパラはどうか。実はこれについても対称的で、

プリパラはなんと、時を戻した。と、いうか神シリーズから止まっているのだがw

今回は明らかに自覚的に、「止まった時」を印象付けている。

 

 

そしてまるで示し合せたかのように、アイカツスターズは「時は戻せない」ことを強調する。

リリィサキパイ・・・いや綺麗なあじみ・・・じゃないリリィ先輩が星のツバサを手にした経緯に思いを馳せよう。

 

繰り返す時の中で、新しいプリパラを作るという未来へ向かうアイドルタイムプリパラ

不可逆な時間を生きながら、更なる高みの未来をみつめるアイカツスターズ

あまりにも対称的なリスタートである。

私はこれを両作品の根本に根差した違いだと思っている。

 プリパラはどこまで行ってもアイドルそのものではなく「プリパラという空間と私」がテーマである。

対してアイカツはアイドルになっていくことそれ自体がドラマになる。

この違いである。

プリパラにとってアイドルは手段に過ぎないが、アイカツにとってそれは目的なのだ。

 

 

確かなことは、両者とも自らの描くべきテーマをはっきりと自覚している、哲学のあるアニメだという事だ。

そしておそらく2017年度は、この二つの星がはじめて同じエネルギー同士でぶつかる真っ向勝負になるだろう。

まったく異なるテーマを持つアイドルアニメが、それぞれが描くべき頂点の先を描いていく。

ゾクゾクするじゃないか。

1年後、両作品のがどこにたどり着いているのか、月日の流れの速さに恐怖しつつも今から楽しみである。

 

プリパラとはなんだったのだろう

 

 

 

 

先日、2年9か月ものあいだ私の人生を浸食し続けたTVアニメ「プリパラ」が堂々の最終回を迎えた。

冒頭は最終回リアルタイム試聴後の興奮冷めやらぬツイートなのだが、まさにこれが私にとってプリパラがどういう存在であったのかの答えほぼそのままだ。

 

「みーんな友達、みーんなアイドル」

このキャッチコピーを証明したファルルの法則は、でもたぶん夢物語であろう。

それはわかっている。

笑顔が10倍になるのに比例して負の感情も増えていくということを、子供達もいつかきっと知るだろう。

それでも、やはり信じていきたい。ファルルの法則を胸にしまって。

プリパラを見て「女児になる」(公式がプリパラユーザーはみんな統計上は女児だと言っているんです)ということは、ファルルの法則を信じたい自分を再確認することだと思うのです。

きっと、プリチケをパキるという行為は、人類の本能なのではないでしょうか。

ループル美術館に収蔵された世界最古のプリチケがそれを教えてくれる気がします。

 

ああプリパラは、どこまでも他者にトモチケを渡すための物語だったのだ。

それは世界で最も簡単で、そして勇気のいる一歩だ。

 

はじめに ~詩と二次元世界への恋

アニメーションと詩は相性が良いと思っている。

 

両者とも、こちらからお邪魔しますと扉を叩かなければ、何も語り掛けることはない内気な文学だ。

 

例えば日曜朝、プリキュアを見て、いわゆる普通の人が絶対に流すことはない類の涙をこぼす。

その瞬間、私は世の人からヲタクと呼ばれる生き方をしていることに、感謝と誇りを持つのだ。

 

良い年してアニメばかり・・・それは逃避だと、言う人もいる。

そうかもしれない。実際わたし自身も多少の恥ずかしさと巨大な後ろめたさを常に感じている。

 

だがこれだけは言おう。

二次元に対峙して生きることは、けして楽ではない。

それは一方通行の恋を受け入れるという生き方だ。

 

なぜなら彼ら彼女らは、私たちに笑いかけることも、拒絶することもけしてない。

彼の世界の破滅も救済も、しょせんは私たちに何らの影響を及ぼすこともない。

 

それどころか別時空の彼ら彼女らが活躍するたびに、

自らがいかに矮小な存在であることを、

またこの先も何者にもなれないであろうことを、

思い知って、

憧れて、

そしてまた人生を呪う。

 

そんなネガティブな人生賛歌に社会的な価値はないことはわかっているが、

しかしそこから生まれるもの、それは詩とよく似た内向きの力を持っていると思う。

 

誰の為でもない、何を為すこともない。

しかしいつか何処かへたどり着くかもしれない、

もしかして、受け取る人だっているかもしれないと少しは期待して風に飛ばす、

そんな未来への手紙だ。