動かない時計の物語
いま、アイドルタイムプリパラが面白い。
いや、毎日毎日プリパラのことばかりをうわ言のように呟いている私だ、何を今さらと思われるだろう。
しかし今年度のシーズン、アイドルタイムプリパラはクオリティ、メッセージ性、どちらから見てもこの4年で最高の出来であると自信を持って言える(なんだかボジョレーヌーボーみたいになってるがw)。
まずクオリティに関してはこれはもう明らかで、作画が大幅に向上している。おそらく4期からチーフディレクターにさり気に小林浩輔氏が就任していることと無縁ではあるまい。韓国側スタジオのスキル向上や国内修正体制の充実はもとより、これまで以上に制作と作画との連絡が的確に行われた結果なのだろうと思う。
相変わらず綿密に計算されたシナリオとライバル作品(どことは言わないが)と遜色ないレベルにあがった作画、この二つが合わさる事でいよいよ打倒プ〇キュアが(ユメに夢みるぐらいには)現実味を帯びてきた。
つづいてメッセージ性だが、夢と時間、この二つをメインテーマが、いよいよその全貌を現しはじめた。
神アイドル編が終わり、アイドルタイム編がはじまり、しかしその実質はプリパラZだったわけで、らぁら以外のメインキャラも結局ほとんど続投してるし、ああ一安心…なんて思わせておきながらとんでもない、アイドルタイムプリパラが描いているのは「過去と未来の狭間にある今そのもの」もっと言えば「時計の針を動かせずにいる人」の物語だったのだから。
ファララは寝ぼけた声で真理を説く。まさしく時計の針を動かすのが夢の力なのだ。
そう考えてみると、アイドルタイムプリパラのメインキャラは、ことごとく「時計が壊れている」人たちだ。
夢をパックに食べられていた にの。
夢を右肩に隠していた みちる。
大らぁらにプリパラチェンジできなくなったらぁら(言うまでもなく大らぁらは「早く大人になりたい」という願望の事であった)。
友達の心無い一言から好きだった物を遠ざけるようになったミミ子。
突然何かの揺り戻しであるかのようにプリパラへの興味を失くしたちあ子。
神アイドルになったものの未来への足踏みをしているらしい みあ。
姉とは逆に時計を早回ししたがっているような しゅうか。
そしてしばしば絶対不可侵の夢の中に閉じこもる ゆい。
これらは作中ではそのものとして描かれてはいないが、この人生の生き辛さを暗に示している。
恐らくそれは現実と折り合いをつけた結果として訪れた「今」だ。
誰だって、とめどない夢と限りある現実の中で、ちょうどいい所を探して生きている。
残念なことに未だ二次元世界に行くための発明が為されていないし、霞を食べて生きるほどには徳も積めないので、この現実で生きていくしかない。
現実で生きていくためには夢を忘れてしまうか、ゆがめてしまうか、なかったことにしてしまうか・・・夢を食べるパックは、夢を否定する何者かの暗喩であろうと思われる。それは親だったり、きょうだいだったり、友達だったり、全然知らないTVの向こう側の人や、もしかして自分自身かもしれない。
ガァララとパックに全ての元凶が託されている今作であるが、しかし現実的には何かのきっかけさえあれば、いつでもどこでも起こりうる有り触れた哀しみのひとつが描かれているに過ぎない。
ミミ子が夢を食べられた顛末を思い出して欲しい。順番としては 言葉の暴力を受ける→パックに食べられる だった。それはパック的にはたまたまだったのだけれど、ここに私は意味を見出したい。つまり、夢見る心の傷つきやすさ、夢みることで受ける数々の呪い。
(考察女児の中でにはもっと突っ込んで、みちるは虐待されていたのでは?と仰る方もいる。雑巾プレゼントを写真に収めている事から。私も同感である。だがその点、今作は暗くなりすぎそうな事からは巧みに答え合わせを避けている。未だに各キャラの家庭事情が不明なのは、何が原因でこうなったか、をあまり掘り下げないで済むように機能している)
実は夢を忘れずにいた ゆいですら、夢を持つことによる呪いから自由ではいられない。
あっけらかんとしているような彼女は、しかし実は自分の夢見がちな性格が周囲からどう扱われているか十分知っているようでもある。(34話が詳しい)
第1話を思い出して欲しい。彼女はらぁらがクラスメイトからチヤホヤされるのを遠巻きに見ていた。すずはなもその輪に参加しているのにも関わらず、だ。
そこには自分だけの夢を持ちつづける事の孤独が感じられる。
しかしそれは特別な事ではないのかもしれない。
誰だって一度見た夢を忘れきれるわけはなく、たとえ否定されて心に押し込めたとしてもそれはずっと自分を呼んでいる・・・ミーチルがみちるにメッセージを書き続けたように、にのが困ってる人はつい手助けしてしまいたくなるように。
だから、だから哀しいんだ。失くしても、思い込んでも、消えてはくれない。それが夢なのだ。それは宿命のアザだ。誰もその宿命から逃れることはできない。
「俺たちが目指すのは勝者じゃなく勇者だろ」と誰かが言った。宿命に立ち向かう事が勇者であるなら、それはなんと強い心のいることか。
夢のない街、パパラ宿はもしかして私たちが生きているこの街の事かもしれない。
2年9ヶ月ものあいだ、夢の中でパラ宿という街にいた我々が、本当に生きていくべきなのは実はパパラ宿の方なのだ。
我々の止まった時計も、そろそろ動かさなければならないのかもしれない。
すべてを見終わったとき、我々の前にあるのは夢のつづきか、それとも目覚めのサンシャインか。
いま、再びこの歌詞を噛みしめる。
「ぴかぴかゆらゆら未来へ歩く今日は、繰り返しのフリしている夢への道。1秒1秒が過去に変わる今を全力で愛していこう」
確かなことは、これは未来に行くための船だろうということだ。どのような未来であっても、「今」にとどまることはけしてできない。
いま、アイドルタイムプリパラを見るのが怖い。