夢と詩情のアニマ

~プリズムの煌めきが生まれる場所、あるいはその墓場

魔法の終わりは夢の終わりか

プリパラが終了してから早4か月が経過した夏。

私たちプリパラのファン、つまり【女児たち】は試練に立たされている。

 

8月3日、そのニュースは噂好きの【女児たち】の耳に飛び込んできた。

「プリティーオールフレンズの新グッズが夏コミにて企業ブースで商品展開」

折しも後継作「キラっとプリチャン」ではあの春音あいらにそっくりな謎の女性「あいら」が登場し(誰なんだろーなー、ほんとに(棒))、プリチャン筐体ではプリティーオールフレンズチャンネルなるものが生まれ、各種コラボ展開が続々と発表された矢先であり、「プリティーオールフレンズが何を目指してるのかわからないけれど、とにかく期待していいんだな」と、夏コミ直前ということもあって否が応にもボルテージが高まる・・・そんな「ゆめしあわせ」な真夏の一日に、それはやってきた。

爆弾であった。

長らく同じプリパラという夢で繋がった【女児たち】であった我々は、その爆風によって本来の姿へと逆プリパラチェンジ・・・化けの皮が剥がれたと言ってもいい、プリパラの中であれば抑え込めていた、もしくは許されていた、またはうまく付き合えていた、そんな見たくもない自分と他者の姿と向き合うことになった。

 

水着を着た女の子のキャラクターがプリントされたクッションカバー。

よくあるグッズである。

倫理観的にはともかく法的には二次元であるので全く問題はない。

プリティーオールフレンズはプリリズでもプリパラそのものでもなく「大人向け」ラインで企画されているのでコンセプト的には十分想定できる商品だ。

 そもそもこのプリティーシリーズは伝統的に「女児向け」な部分と「オタク向け」な部分が混在する作風で、常にそのバランスをうまく取りながら成立してきたシリーズであり、今回のグッズについても計画されていた販売方法含めてそのバランスをおおきく逸脱したとは思えない。

冷静に考えれば炎上するような事ではないのだ。 

にも関わらずこの商品は議論を呼び、ついには血みどろの内紛にまで発展してしまった。

しかも不思議な事に「プリティーオールフレンズの・・・」ではなく「プリパラの・・・」と捉えられがちであり、容認派も拒絶派も「プリパラとして」アリかナシかで語りがちである。

それは何故なのか、拒絶派は今回の件で何故公式から裏切られた気がしてしまうのか、容認派はどうして拒絶派を説き伏せて再び自分たちの側に引き戻したく思うのか、ネット上で騒いでる人達はみんな良い大人なんである、「気持ちが離れてしまった、お互いここでさようなら」それでよい・・・それで済むはずなのに、何故かそれができない。そこにこそ我々【女児たち】に入ってしまった亀裂の正体と悲しみがあるように思う。

 

 

 さて最初に断っておくが、私は今回、すでに色々なその道の専門家(揶揄を交えて敢えてこういう言い方をするのだが)が言及しているような「女児向けアニメが公式でこのような商品を発売するのは如何なものか」などという社会的にそれはそれは意義深い高尚な問題を語りたいわけではない。

それに関しては私個人としては「そんな今さらめんどくさいこと言うなし」という気分ではあるし、なんなら「残念でした~プリティーオールフレンズは女児向けじゃありません~」と小学生のように勝ち誇りたい気持ちもあるんだが、しかしそれを言ったところではっきり言って勝ち目はないし益もないだろう事は明らかなので、ここは早々に投了してしまって譲歩してしまうのが吉だと考える。

また、プリティーオールフレンズがどういう企画なのかという事の把握どころかプリパラとプリキュアの区別すらついていない輩が横から口出ししてきている現状も、それは腹立たしいのだが、しかし問題の性質上ゆめしかたない、いやいたしかたない事であり、今後の女児向けアニメとその周辺に対してのガイドラインのたたき台になれば良いと思う。

だからそっち方面の話題はここではしない。その道の人たちで大いにやって頂ければ宜しいかと思う。

 

 それで私はプリパラのオタクなので、オタクの視点から本件を論じさせていただく事にする。

またプリリズの方には実のところ思い入れがないため、もっぱらプリパラの側面から語らせていただくことを断っておきたい。

プリリズの側面からは往年のヤクザの兄貴分たちにお任せする。

 

それで内容というのは例によって非常に感傷的な話であるが、「俺たちのプリパラが壊れてしまった」という怒りと悲しみについてだ。

容認派も拒絶派もこの一点に関しては共有できる痛みだと思うし、まさにこの痛みこそが今回の件で最も反省されるべきものだと思う。

この一連の騒動でプリパラが失ってしまったもの、壊れてしまった大切な概念、それは「みんな友達、みんなアイドル」「We are Pripara」その感覚である。

 

 これに関してはまず前提として、「プリパラのファン層の多民族性」を考える必要があると思う。

ここでいう多民族というのはもちろん現実世界のそれではない。

TVアニメとその周辺コンテンツを受容するファンとしてのアイデンティティ、つまりその人がどういうオタクなのか、またはオタクではなくて所謂本来のターゲットなのか、その親御さんなのか、という問題だ。

実にプリパラのファン層は幅広い、というかある程度意図的にそうしてきたのだと感じる。

つまりアイドルアニメが好きな人たち、女児アニメが好きな人たち、プリティーリズムが好きな人たち、森脇アニメが好きな人たち、i☆Risのファンたち、特に二期以降の新キャラの声優ファンたち、アイドルコンテンツそのものが好きな人たち、あと菱田親分が好きすぎる人達(笑)・・・そういう雑多なオタクたちと女児先輩とその親を巧妙に取り込んで、ここまで発展してきたコンテンツと言える。

それはプリパラ自体が持っている多様性を保証するコンセプトとそれに基づいた作品メッセージと相まって、ある種「プリパラだけが持っている特殊磁場」のようなものを生み出しており、居心地の良いひとつの解放区だったのだ。

それこそが「みんな友達、みんなアイドル」である。

 多種多様なオタクたちと、そして女児先輩とその親たち、本来なら同じ夢など見ようはずもないのだが、プリパラという空間がそうさせたのだ。

いつだったか公式が大人のファン層を「本来のターゲット層」扱いし始めたが(あくまでネタの範疇で)それすらも実は仕掛けられた没入感の補強に他ならない。

プリパラを好きな人間はみなプリパラアイドルであり、例えばプリチケを筐体にスキャンしたとき、火曜日5時55分にチャンネルをテレビ東京系に合わせるとき、応援上映でタガの外れたガヤと化すとき、SNSであの回はどうだったあのネタは狂ってたとかあじみ先生やべーとか語ったり検索したりするとき、それは紛れもなくプリパラにいる時間であり、我々はまさしくプリパラによって幸福権を保証された【女児たち】であり、その限りにおいて「みんな友達」だった。

 

今回の騒動によって壊れてしまったのは、まさしくそのプリパラという幻想そのものである。

冒頭で私は、その爆風によって化けの皮が剥がれてしまった、と表現した。

それは女児のお面をかぶったロリコンの素顔が明るみに出た・・・という意味だけではない。逆もしかりだ、温和な表情の裏にロリコン絶対殺すマンの尻尾を出した人もいる。

・・・と言ったら少し言葉が過ぎたか。私もだいぶ仮面が外れている。自重しよう。

つまりそれぞれの出自が明らかになったと言いたいのだ。

 別にそれ自体は良いのだが、多様性を根幹に置いてきたプリパラだからこそ、本来相いれない二者が共存していたのはむしろ平和の象徴でもあり誇りでもあるのだが、ひとたび抗争が起きたことで必要以上に互いを傷つけあって、結果として理想郷としてのプリパラへの無邪気な夢さえもが薄らいでいく様は、長く【女児たち】として生きてきた自覚を持っている身としては耐え難い哀しみである。

「同じ花を見ていたわけじゃなかった」その当たり前の事実を知ってしまったこと、それが悲しい。

 

【みんながゆめ幸せなプリパラ】へと走り出したあのアイドルタイムプリパラの最終回、あの真っ白な未来の先で待っていたのがこのような現実だったとすれば、やはり時計の針なんて回すべきでは無かったのかもしれない。

しかしこれは遅かれ早かれ発生した事態とも思う。今回のビッグクッション云々はトリガーにすぎない。

多種多様な愛を受け止めて一つに束ねてきたプリパラという神はすでにこの4月からいない。

かけがえのない思い出と生きていくべきやるせない現実が、消えずに残っている。

それでも私は思うのだ。

「みんな友達、みんなアイドル」この魔法はきっともうとっくに効果を失っていて、我々は二度と【女児たち】にはなれないのかもしれないけれど、それでも信じたい。

5か月前、確かに同じ涙を流していた筈だと。

いつか再びプリパラで「同じ花を見ている」と錯覚する事ができればよいな、と。

例え魔法が解けても、幸せのプリパラへの夢を見ていたいのだ。

 

私が今回の件に関して言いたいのは、単にそういう、ひとりのオタクが思う身勝手な、この期に及んでユメの話である。