夢と詩情のアニマ

~プリズムの煌めきが生まれる場所、あるいはその墓場

統計上の女児のアイドルタイム

2014年 7月5日、午前10時。

さして期待もせずにその番組にチャンネルを合わせた。

 

「お洒落なあの子真似するより、自分らしさが一番でしょ」

 

…なるほど、オンリーワンを目指す系の話か…キャラクターは可愛いし、森脇真琴という監督はあのお願いマイメロディを手がけた人だ、つまらないという事はないだろう、アイドル物は苦手なんだけどな、主人公の声は実際のアイドルなのかな大丈夫なんだろうか、なんだ作画は外注なのか…不安だな、いきなりCGかぁ…昔と比べて進化したとは言えあんまり多用は好きじゃない…、おいおいEDは実写なのかよこりゃあかんわ、…とりあえずぷりぷり言ってる子だけは無いな。

 

これが第1話を見たときの率直な感想であった。

それがプリパラとの出会い。

それがどうしてこうなった\(^o^)/

気が付けば毎週土曜そして金曜(ニコ生版)が何にも替えがたい特別な時間となり、人の目を気にしながら筐体デビューし、やがてそれも慣れ、薄い本欲しさに人生で初めてコミケというものに参加したり、アニメのライブイベントという現場がどういうものなのかを肌で感じ、コールとかミックスとかいう異次元の単語を覚え、サイリウムという物質をまさか自分が降る事になるだなんて・・・あの日の自分に教えたらどんな顔をするか。

そう、プリパラをこんなに好きになる予定は、実は私の年表にはなかったはずなのだ。

 

もっと若い時分、「人間、どこでどうなるか分からないものだよ。」と大人な人たちに諭されては「そんなもんかね」と斜に構えていたけれど、いまなら確信を持って言える。人間、どこでどうなるか分からないものだね。ソースは俺。

 

 

それにしても本当に、楽しい思いをさせて頂いたと思う。

ちょっと世間様には顔負けできないような、統計上の女児として生きた季節。

 

そもそもプリパラをする人はみな女児であるという概念が広まったのはいつの頃からだったか。たしか100万ユーザー突破の際に「ターゲット層が全員ユーザーになった計算になる」などと本気なのかギャグなのか公式が発表した事を受けて「プリパラユーザーは女児に換算される=我々も女児」とごく当たり前のように拡大解釈されたように記憶している。

それまでも、子供向けアニメを見ている自分を揶揄して「〜児です」とやや自嘲気味にアピールするのはいわば我々の業界での作法であったが、この場合それとは少し趣きを異にする。

プリパラをしているという事は、プリパラアイドルである事は、揶揄ではなく事実として即ち女児なのである。

ではここでいう女児とは何か。それはプリチケの届いた者である。いや、初期のころ闇で囁かれた初潮説はもうマスコットの墓場にでも葬ろう。

プリチケとは新しい世界への扉を開くチケットである。 そのことは繰り返し描かれてきた。それを心に宿した瞬間、扉を開くとき、人はアイドルとなる。

実になんでも良いのである、プリチケは。自分らしさを記したものであれば。相手に渡すことのできる自分の証明書でさえあれば。たまたまアイドルを扱うアニメだから、アイドルテーマパークに行くためのチケットとして描かれてきたに過ぎない。

人によってそれは野球のグローブになるかもしれないし、ミニ四駆とかビーダマンとか(世代がバレますね)、バイエルが抜けられないピアノが苦痛とか、天体観測が好きだったり、そういう大小様々な「好きと嫌い」の想い、それがプリチケだ。そう、このアニメを見ている時に生まれる感情も。

 

しかし私にとってそれは、もしかして憧れよりも羨ましさが強かったかもしれない。

楽しさよりも寂しさを、未来よりも過去を、希望よりも後悔を、夢よりも現実を感じる事の方が多かったかもしれない。

例えば12話で駆け出したそふぃ、18話でレオナが出した答え、25話でよみがえったひめかとシュガーのトモチケ・・・そんなものは夢物語だと思ったし、だからこそ美しいと思った。

友情なんて口に出すのはたやすい。けれどそれを無邪気に信じるにはひねくれて生きてき過ぎた。なにがみんな友達なんだろう。どうやってみんながアイドルなんだろう。それは嘘だ。画面の中の彼女たちに涙を流せば流すほど、現実の自分はどんどん冷えてゆく。彼女たちのような存在になれたら・・・なりたい、なれない。

 

ああそうだ、私にとっていつだってプリパラは「手に入らなかったもの」の象徴だった。

過去において手にする事ができず、そして未来にも求めることができない、ただ寂寥たる現在からじっと眺めるだけの夢。

それが統計上の女児である私のアイドルタイムだったのだ。

 

「新シリーズ アイドルタイムプリパラは時間がテーマになります」

1月、その報を聞いたとき、ぎくりとした。

ついに来たか、と思った。

アイドルタイム、転じてidle timeというのは、実のところすぐに察しがついた。

それは子供時代という終わらない夢を終わらせるための物語になるのだろうと。

「時計の針、回そう」

何度も何度も強調されるメロディ。逆回りする時計は存在しない。必ず未来へと進む。残酷なほどに刻一刻と、アレグロ、そしてヴィヴァーチェへと加速する。

 

そうだ、どんなに素敵な時間も、いつか終わりが来てしまう。

昼から夜へ、夜から朝へ、時計の針を止めても地球は回る。

真中らぁらはいつか中学生になる。ならなければいけない。

それはわかっていたはずだし、その時のためにプリパラを見てきたように思う。

春から夏、秋から冬、そしてまた春へと一巡り。

ダカーポ」と夢川ゆいは歌う。

それは繰り返しなのか、それとも何かが変わっているのか。

時計が一回りすれば嫌でもはじまる新しいアイドルタイムで、今度はそれを探す夢が始まれば、良いのだが。

 

 

 

<追記> 今回、ツイッターでプリパラ談義に花を咲かせたりする同志の女児カスペルさんが企画された プリパラバーリトゥード Advent Calendar 2017に本文を寄稿させて頂いたり致しました。

もしかして、些細な事ではありますが、これは知らずにアイドルタイムが貯まった結果なのかもしれません。だとすれば、きっと私の時計も進んでいる証拠となりましょう。

最後に昼の精霊の真似をして締めたいと思います。

「カスペルさん、素敵な時間をありがとう。みなさま、よいクリスマスを!(なちゅ!)」