テップルに会いたかった星
この話は年内にしておかねばなるまい。
先ごろついにDVDが発売された「映画ここたま テップルとドキドキここたま界」についてだ。
この映画、今さら語れないほどに名作である。
まずこころちゃんが可愛い、大天使・・・なだけではない。
いや、最終的にはそこに集約されるんだが、この映画の価値はそこではない。
この映画が2017年という現代に世に放たれた意味は、人間と物との関係性を問い直したという点にある。
それはリサイクルという今や当たり前となった概念、循環する世界とその中に生きる自分を見つめなおそうというメッセージだ。
そうリサイクル、この映画はリサイクルの話なのだ。
なんのリサイクルか、それは愛だ。人と物の間を循環する愛。
では、愛はどのようにRe:しているのか。
ゼロからはじめるわけではない、いやこれはヲタク特有のジョークというわけではなく、本当にゼロからはじめることはできない。
なぜなら、愛はなくならないからだ。
この映画は何をしても消えてくれない愛、その悲劇とそして希望を扱っている。
その話をするに当たり、まずはここたまとはなんだろうか、という事を改めて確認する必要がある。
それは所謂九十九神とは違うのか。
公式設定には「人間の大切に使った物への想いから生まれる」とある。
そしてたとえ持ち主が変わっても問題ないし(ウケローの例)、形が変わってしまっても同一のここたまとして存在できる(クルンの例)
。また持ち主と言える人が居なくても構わないようだし(パタリーナの例)、自らさすらうここたまもいる(ゆっきーの例)。
どうも一度生まれた以上は現在の母体、つまり色鉛筆やピアノの状態は問われないようだ。あくまでもその物との関係性、楽しかった記憶から生まれた精霊、それがここたまなのである。
だから我々がこころちゃんの心労をおもんばかって「色鉛筆を捨てよう」と提案しても、それは無駄なのだ。一度生まれたここたまはそんな事では消えない。非常に残念だ。そしてそれこそがクルンのエピソードでは希望となったし、劇場版では悲劇として描かれた。
ここたまを生むような強い想い、それは愛としか名付けようがない。
愛からここたまが生まれ、見習いここたまがハッピースターをつくり、一人前のここたまはそれを人間に再び還す。
それは究極のリサイクルだ。しかしその循環がもし途絶えてしまったら?
まいちゃんとテップルというミニマムな関係性から人間とここたまというマキシムな関係性まで発展するこの映画は、その愛のリサイクルの断絶が誰の身にも起こり得る、もう経験しているかもしれないと我々に囁いてくる。
それはこころちゃんにだって例外ではない。
こころちゃんもいつかは緑色の色鉛筆を必要としなくなる時がくるかもしれない。
それは恐ろしい想像だが、きっと人生のどこかで思い知る。
だからこそ、映画のクライマックスでこころとラキたまは全人類の罪深さ、愛の循環を忘れてしまうという人間の愚かさを濯ぐために儀式を行う。
世界中の大好きを受け止めて、また再び世界に放射する。それはここたま界が担っているリサイクルのシステムをたった2人で行おうというものだ。
しかしそれは諸刃の刃。大好きの分だけ裏返った呪いも大きくて、それに耐えきれないとのみこまれてしまう。
けれどこころちゃんとラキたまは信じ切った。
互いの愛の循環は途切れることはないのだと高らかに宣言する。
「ずっと一緒だよ」
この言葉が嘘になるかどうか、それは分からないし、おそらくこのアニメで描かれることはけしてない。
だが、信じる者は救われる。私は信じたい。かつて愛の循環をなくしてしまった我々もまた、ほんの小さな事でも良いのだ、新しい循環のひとつとなることで、世界規模でも愛は循環すると、人間の世界もまだまだ捨てたもんじゃないと証明していけると。
これは救済だ。愛のリサイクルを再びはじめるための新約聖書である。
つまり、こころちゃんは大天使であり救世主にして神、三位一体の存在であり、すべては四葉ココロエルの御心のままに・・・・って、結局はここに帰ってきてしまったw
ところでテップルの呼びかけに応えたハッピースターが本当にまいちゃんの物だったのかについては、それは永遠の謎である。
しかし誰の物かはこの際重要ではない。大切なのは、テップルもまいちゃんのハッピースターを探していたが、あのハッピースターもテップルを探していた、ということだ。
より踏み込んで言えば、あの名もないハッピースターは「自分を探しに来てくれる存在を待っていた」、私たち大人がいつしかどこかに置いてきてしまった「たいせつなものとの記憶」である。
例えばそれは時代遅れのゲームソフト、4巻だけ失くしてしまった漫画、聴かなくなったCD、誇りをかぶったエレキギター、空気の抜けたサッカーボール、さび付いた自転車、物置にしまいこんだお雛様・・・数々の愛の面影。
ああ、はっきりと言おう。
あの星は私が失くした心のような気がする。
どうしても、そんな気がするのだ。
私にとって映画ヒミツのここたまは、かつて存在し、そして今もそこから呼んでいる、たいせつなものの死と再生の物語なのだ。