終末によせる歌は
2018年もはじまり、1月を半ばすぎてからいうのもなんだが、
改めて、少女終末旅行によせて、詩情をひろげよう。
なお、原作は未読であるので、材料がアニメ版だけなのは申し訳ない。
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旅も、人生も、終わるまでは終われない。誰もその旅を、勝手に終わらせてなどはくれない。
「ね、怖くない」と言う代わりにエリンギは告げる、「我々は生きている人間を食べたりしない」と。
それはもしかして、何よりも絶望的な希望なのかもしれない。
まさしく「終わるまでは終わらないよ」なのである。終わりは向こうから勝手にやってくるものではない。終末とは自分自身で、潔くあるいは無様に、清々しさと未練と恨みと愛情とを持って、そっと引導を渡すものなのだ。
終わりの約束された世界で、チトとユーリは生きている。
補給して、進んで、補給して、また進んで、いつ報われるとも知れない旅路、それでも生きていく。
それは我々とて同じだ。我々もまた、穏やかで焦燥にまみれた人生という旅を過ごしていく。仕事して、寝て、仕事して、寝て、たまに遊んで、また仕事して・・・いや、ここで現代日本の歪みの話をしたいわけではない。
そうではなく、これは「存在は有限である」という事実を、知識としても実感としても知っている唯一の生き物である人間が、いつの時代も抱いてしまう生きる事のつらさのことである。
極論を言えば生きる事とは死に向かって行くことであり、出会いとは別れの始まりであり、すべての歌は終止線に向けてその旋律を紡ぎ、そして一度流れ出したその波は、途中で途絶えることはない。
この少女終末旅行という物語は、そんな不毛な生きるという行為について、2人がどのような意味を見出すのか、そういう話だったと思うのだ。
歌は自らの心をゆらして、また他者へと伝える共感の波。
レクイエムは穏やかに。旅のお供の口笛は、軽やかに。
「いつか月まで行こう」と歌う彼女らは、その手を繋ぎ続けているかぎり、終末を見る事はないだろう。
「終わるまでは終わらないよ」と何度も何度も聴いた2人の言葉は、それは希望そのものであった。