夢と詩情のアニマ

~プリズムの煌めきが生まれる場所、あるいはその墓場

女児たちに思い出話は似合わない

2020年、夏。

プリパラが放送開始してからまる6年が経った。

 

7月5日、プリパラ共和国建国記念日、とは誰が言ったか私が言ったんだった(ぜったい流行らんわ)。

折しもプリティーシリーズ自体も10周年を迎えるこの7月。

後継作「キラッとプリチャン」は2年目のクライマックスを見事に描き切り、3年目を快調に飛ばしている。(社会的情勢により中断を余儀なくされたが)

またWEB配信という、困難な社会状況の逆をついた形でついに実現したプリチャンの単独ライブは大成功をおさめ、改めてそのコンテンツの質、量ともにけしてプリパラの代替品ではない事を見事に証明した。

 

そう。プリパラは確実に、そして正しく過去のものになっている。

だからこそ、ここは少しかしこまって何かをしっかりと書き残しておきたい衝動にかられるわけで、ツイッターに放流し続けている激重感情たちをサルベージしつつ、少しこのプリパラ終了後の2年と少しを振り返ってみたいと思う。

  

誤解をされると困るので一応断っておくが、私自身もプリチャンを現役で楽しむ女児である。

プリパラに心を置き去りにした女児であるのと同じ熱量でいるのは、この2期クライマックスに寄せたツイートから分かってもらえると思う。

 

ただ、プリパラはやはり「特別」なのだ。

それは皮肉にも終わってしまったからだと思う。…いや、後述するこの二年間が物語るように何故か終わってないのだけど。

いつか、もしかしたら、いや確実に、プリチャンも僕の心の中にぽっかり穴をあけたまま世界から消えてしまい、「特別」に変わる。

アイドルタイムプリパラ50話の氷の中で腐った夢を抱きしめて眠る私は、如何にしてこのアフタープリパラを生きたか、そして如何にしてこの後の世界を生きるべきか。

それこそが、いつか来る「プリチャンの終わり」への向き合い方を教えてくれると思うから。

 

☆そもそも終わったはずのプリパラ

 2年前にプリパラが終わったあと、私はしばらく何もできなかった。 

いや、プリチャンを全力で楽しみ応援しようともちろん思っていたのだが、自分で思っていた以上に心に空いた穴は大きかったようで、これが情けない話であるが、なんのアニメを見ていても、いや何をしていてもプリパラの影ばかりを探していた。

その意味では「プリパラの亡霊」と揶揄されるに相応しかったと思う。(この呼称、とかくプリパラを特別視する向きのオールドファンに向けていつの頃からか投げかけられるようになった、まあ蔑称といえば蔑称のひとつなのだが、実はけっこう気に入っている。)

 

何しろこのようなツイートを残しているぐらいだから。

 

 

・・・重い!!我ながらなんという激重感情!!

しかし、これは誓って言うが、私はプリパラの終焉、そしてアイドルタイムプリパラが1年で終わった事について、当時から完全に納得し、受け入れていた。

それにはやはり激重激えもないくつかの理由もあるが、それはまあツイログでも辿って頂くとしまして、ここでは一歩引いた視点からひとつ決定的な理由をあげたいと思う。

それは、物事には賞味期限がある、という全く女児らしからぬドライな視点だ。

 

栄枯盛衰、必ず終わる時があるってことさ!

「小学6年生を繰り返す事で終わらない物語を作ることはできても、永遠のアイドルタイムは手に入らない」という事である。

 

終わるべき時に終わらなかったばかりに、ずるずると引き伸ばし、全く別物に変容し、過去の栄光だけにすがって、やがて15分枠になり、2クールで打ち切られる…

それなりに短くないオタク人生、女児アニメに限らず、そんな悲劇をいくつか見てきたので。(めが姉とあいらとジャニスの前世のしゅご某とか)

どんなに面白いアニメでも、年数を重ねると、いや重ねれば重ねるほど、その陳腐化と変質は免れない。

そういう意味では4年、という区切りは実に的を得た判断だったと思う。

それに加えてアイドルタイムプリパラの終盤は時計塔に閉じ込められた「叶わなかった夢」と対峙しているわけで、それは「プリパラ、終わらないで」と願う我々そのものと取る事も可能だったわけだが、まさにそのような話をアニメ内でされたら、もう物語が終わるという事実に対して文句は言えない。

(もちろんアイドルタイムプリパラ2年目を未だに夢に見ないわけではない。公式設定資料集を読んでもわかるように、やはりスタッフやキャストも心残り、とは言わないまでも「もっとやりたかった」という気持ちが強いようだし内部事情は複雑であった事が伺える。しかし、結果としてプリパラがあの時点で終了したのは正しかったし、そして完璧なフィナーレを見せてくれたという事だ)

 

 

・・・さて、2年前の時点でそんなふうにある程度ドライに構えていた私であったが、しかしやはりプリパラから卒業することはできず、プリチャンは別物と割り切りながらもその背後に常にプリパラの幻影を追い求めるようになる。

   

  

 

こんな殊勝なこと言っていたのに、 

 

 

次の週にはこんなこと言ってるw

重すぎ。完全にプリズムヤクザじゃん。2ちゃんでやんなさいよ。

 

まあ不安だったのよ。「プリチャンはプリパラを超える存在でなければならない」というのは、やっぱり至上命題だったから。

 

その後も私のプリチャンに対するスタンスはつかず離れず、時に絶賛し時に酷評し、一応中立を保ったつもりではあったが、やはりそれは「プリパラに心を置いてきた者」としての視点が常にあったのはここに白状しておきたい。

(3期が華麗なスタートを切った現時点ですらそうである。これは業であるのでもうどうしようもないし、プリティーリズムを見てくださいの人を二度と笑えない)

 

しかしそんな私にとって救いだったのか、それとも公式による組からの足抜け阻止であったのかw、

プリパラは再び表舞台に踊り出す。

 

 

突如として猛烈に展開されるWITH。今までの不遇を詫びるような怒涛のプッシュに戸惑いつつ、まさか【ダンスプリンスプリパラ】が制作決定しちゃうのかと気をもんだのを覚えている。

しかしこの時はダンプリにこれ以上の展開はなく、しばらく凪であったが、衝撃は秋にやってきた。

 

スパイシーホットケーキである。

 

ノンシュガーの逆襲、そして復活のユメ目

 

 

オータムライブ大阪公演にて、ノンシュガーにまさかの新曲。まさに青天の霹靂であった。

いや、これを妄想や期待ではなく現実の展開として予想出来ていた女児はいないはず。それほどに「あり得ない事」が起こったのだ。 

そしてそれを契機とするかのように続く東京公演では、主にアイドルタイム組からプリパラへの熱い感情を聞くことができた。

 

 

プリパラが再び動き出すためにはどうしても夢川ゆいの夢目が必要だったと私は今でも思う。(中の人である伊達朱里紗さん自身も、この時の夜公演で何か感じ入るところがあったと後にウインターライブ2018のインタビューで語っている)

 

だから、この東京公演こそが本当の意味での再始動の産声だったのではないだろうか。

 

さあそれからの展開はまさに怒涛の夢。まるで、プリパラが還ってきた、いや、我々がプリパラに帰ってきたかのような、そんなゆめ幸せな季節がやってくる。

 

まずはプリチャン筐体にプリパラリバイバルの兆し。

らぁゆいチャンネルの展開開始。

 

続くウインターライブ2018ではファン投票で選ばれた新ユニット、ドロマゲドン・ひの鮮烈なるデビュー。相変わらず虎視眈々と誰よりも大きな夢を思い描く華園しゅうかの完璧なるパフォーマンス。そして悲願とも言えるマイドリの新衣装、アニメと同じあの揃いのコーデを着てビリーブマイドリームを歌う三人の姿がついに見れたというだけで落涙。

 

しかしだ。ここまではただの前哨戦であることを我々はすぐに知る事になった。

ウインターライブ2018終演後に驚きの特報、フレンドシップツアー開催。

 

東京大阪両都市で2か月かけて全12公演、しかも翌年2月からはやくも開始。沸く会場。しかし同時に困惑も生まれる。そんなに多くの公演数、しかもあと3か月しかない。演者のスケジュールは?新曲もあるとは?というか我々の財力は…?(笑)

いったい、何が始まろうとしているのか…。

 

 

このとき、私はこのように胸中をツイッターの感情の海に放流したのだが、すでに航海に例えている点は全くの偶然である。

しかし後に思い知る事になるが、この後のプリパラはまさに新大陸を目指す船団のように、大海原へと漕ぎ出すのであった。

これは新たなる夢の旅路の始まりであったのだ。

 

夢のつづき、友情と言う名の船に乗って

  

フレンドシップツアー、初演は都合がつかず断念のため在宅。「宵越しの夢は見ないの」とは言いつつも、私もまた3次元上の存在であり女児であると同時に社会人の1人とあれば多分に金銭的な事情もあり、とにかくマイドリが出演する2月10日、昼夜通し公演に全てをかける判断をした。

その前日、気持ちを高める意味もあり、アイドルタイムプリパラ最終回を見る。

もう何度目か…という事もなかった。それが好きな作品であればあるほど、最終話だけは繰り返し見れない。これは昔からどんな作品でもそうなのだ。その理由が、プリパラと会って初めて分かった気もする。向き合う覚悟がいるんだ。最終話の先の世界に。

 

それでも見返したのは、その必要を感じたからだ。

すでに初演に参戦した顔も知らぬ同志たちが泣いている。

これは大変な事になる。待っているのが未来だとしても過去だとしても、相応の覚悟を決めて臨む必要がある。あの3月27日に止まってしまった、火曜日6時25分から先のidle-time(idol-time)の続きを。

 

かくして、それは大げさすぎる儀式ではなかった。

 

 

Crew-sing! Friend-Ship!なる全員で歌う新曲がある事は既に聞き知っていた。

だから「新曲もあるよ」とはてっきりそれの事かと思ったのだ。

かくしてそれは大間違い。この10日にてガァルマゲドン、マイドリ、さらにガァルマゲドンとミーチルにそれぞれ新曲がもたらされ号泣したのだが、その時の筆舌に尽くしがたい想いは、終演後の以下の連ツイを見てもらう以上に正確に伝える事はできないだろう。

 

 

 

 

その予感に応えるように、その後もツアー中にドロレオ、ちり&しゅうか、しゅうか、ひびき、そしてノンシュガーが「当然でしょ」とでも言うように順次新曲を発表し続けて行ったことは知っての通りである。しかも各公演ともアニメ本編の脚本家が書いた番外編的な朗読劇まで披露され、それは殆どアイドルタイムプリパラ2期であるかのようだった。 (全公演を収録した12枚組BD、または全朗読劇を収録したドラマCD発売、ゆめ待ってます)

 

 さらにタイミングを同じくして短期間ながらもプリパラジオと称するラジオ番組がWEB配信開始、その上で身発表音源まで網羅したコンプリートアルバム発売と、その勢いはすでに終了したアニメのものとはとても思えない程であった。

もはや何が起こってもおかしくない事態に、過去の自分にこのような謎のマウントを取るぐらいには、私も浮足立っていたw

 

しかし人生に必ず終わりがあるように、夢にも終わりがあるもので、プリチャン2期がはじまり、フレンドシップツアーも千秋楽を迎えプリパラジオも終了したことで約半年に及ぶプリパラ復活の兆しは一時の祭りであったかのように終息していく。

 

 

やはりこのままワンチャン完全復活、ノンシュガー編スタート、ダンプリスピンオフ、【劇場版アイドルタイムプリパラ~もうひとりの精霊~】…など夢のまた夢なのかそうだよな現実を見るみゃあ…そしてそれはやはり正しいことだったと、多くの女児たちは受け入れていたとは思うのだが、

 

ニュースは再び突然もたらされた。

 

2019年度、メモリアルとマイルストーンとの狭間で

6月、WITHの2ndライブにて、WITHとしてのアルバム、さらにプリパラ5周年を祝う企画が進行中と発表される。 

 

 

また何かライブでもやるのだろうかとユメ目になりながら待っていたのだが・・・それとは全く別のところで、ツイッター上の女児たちの間で不思議な噂が流布されていることを知る。

曰はく「どこぞのゲームコーナーにプリパラがあった」

 

そんな馬鹿な、ついに幻覚を見る人が現れたか…と思ったものだが、どうも本当で、しかも名古屋にも1軒あるらしい。

疑心暗鬼のうちにその辺鄙なイオンモールまで 足を延ばしたのだが…かくしてそれはあった。

 

 

まるで遺跡でも発見したかのような心持ちだった。

噂を聞きつけた女児たちによりすでに大行列が形成されていた事は言うまでもない。

どうもそれは何かのロケテであるらしい事はうかがえたが、公式からはなんのアナウンスもなく、なぜ今さら、何の為にするのか、はっきりいって不気味な事象であった。

しかしそんな事はどうでも良かった。もう一度、あの頃のマイキャラになれる。トモチケのメンバーと会える。ドリームシアターが、ずっ友が、ダンプリができる。平日昼間に長蛇の列、平均3時間待ちは当たり前。それは少し、いやかなり異常な光景だったかもしれない。あの時、イオンモール名古屋茶屋のモーリーファンタジーに並んだ猛者たち、私も、あまり熱を入れないようにしようと自戒しながらも、いつの間にかそういう一人になっていた。(もっとも、プリズムストーン原宿と東京駅店では以前からプリパラも稼働していたので、本当にプロフェッショナルな女児は遠征するなりしていたらしいが。韓国弾丸ツアーなどをしているガチ中のガチ勢もいらっしゃる)

 

 

やがて、我々が足しげく通った事が功を奏したかどうか知らないが、その時はやってきた。筐体としてのプリパラの正式な復活である。

 

なんとプリチャンと同時展開するという荒業。復刻プリパラに関してはその時点では新要素はメモリアルの新バージョンぐらいで、あとはひたすら過去の遺産の再利用にすぎないという事実はあるが、それでも一度完全に姿を消したゲームが再稼働し、さらに現行コンテンツと文字通り肩を並べている光景は、なにか来るものがあった。 

 

このプリパラ復活の舞台裏に関してはこれは全くの推測ではあるが、おそらく新筐体に移行するタイミングを計っている中で、少しでも回収率の良いコンテンツに集中させたいという意向が働いているのではないかと思う。

復刻プリパラは他コンテンツからのコンバートで運用されている事からも、これはメーカー的にはただの配置換えでもあるのだ。

 

また、同時に本格始動した5周年企画はTokyo MXでの再放送開始、youtubeでの1期・2期配信、そして設定資料集刊行と…いささか懐古主義的な雰囲気が漂うものであった。

 

しかし同時にフレンドシップツアーの更に先へ進もうとする展開も多く見られた。

ますはフレンドシップツアーでの新曲群を収録した新作アルバム「プロミスリズムパラダイス」が発売が満を持して発表。

コンプリートアルバムの後に、である。

もはやコンプリートとはなんだったのかレベルであるが、しかしそれは嬉しい悲鳴だ。

プリパラの、夢の続きが、そこにはあったのだ。

 

そしてその1か月後には満を持してWITHのアルバムも発売となる。

  

アニメでは十分に描き切れたとは言い難いダンプリの世界を、単独ユニットでのフルアルバムという規格外の物量で見事に表現した傑作アルバムである。

 また森脇監督が手掛けた付属ドラマCDは、このままOVAを作れるんじゃないかという程のしっかりした【番外編】であり、朗読劇で重ねられてきたショートコント集とは違う、非常に具体性のあるダンプリスピンオフを感じさせてくれた。シンヤとウシミツって誰よ?w 

 

さて、この2枚のCDによってスパイシーホットケーキ以降に発表された全楽曲が音源化された事になった。この先どうなるかはわからないが、未発表曲もコンプリートアルバムであらかた出し尽くしただろうし、しばらくは沈黙するのだろうか…そのように思っていた…のだが、再び特大級のサプライズで布石を置いていく公式サイドの恐ろしさを目の当たりにする事になる。

 

ウインターライブ2019、マクパリにて、北条コスモの新曲発表である。

 

このコスモがプリパラのコスモなのか、それともプリチャンにコスモが出るという事なのか?これ以来具体的な動きが何もないので全くの謎なのだが、とにかく一息つこうとしていた我々プリパラアイドルを再び慌てふためかせるには十分すぎる衝撃であった。

 

そして2020年1月10日、WITHそしてノンシュガーの単独ライブが発表される。

 とくにノンシュガーは名実ともにこれで下剋上達成という雰囲気もあり、まさに無敵艦隊、追い風を受けてこのまま新大陸、つまり待望のノンシュガー神アイドル編制作決定なのか!?…と甘い夢を見ていた矢先、運命の悪戯か、追い風を止める力が働く。

世界を今もなお動揺させる、新型コロナウイルスである。

 

この恐ろしいウイルスによる困難な社会情勢については当記事では一切詳しく触れないが、とにかく【日常】という概念の存在を根底から覆してしまう、あの東日本大震災の時以上の社会混乱が発生してしまったのは事実で、それによってあらゆる事象が見直しを迫れた。(そう、スーパーマーケットの営業時間に至るまで!)

エンターテイメントの類はその影響を真っ先に受け、プリパラ、そしてプリチャンも例にもれずさまざまな企画の一時中断、予定変更、進路再考を余儀なくされた。

WITH、そしてノンシュガーの単独ライブは自粛と言う名のもとに中止…ある時期からはこれは予想がついていたものだし、社会全体の雰囲気もあってこの決定に関してことさら文句を言うようなファンはあまり見受けられなかった事は救いだが、とにかく悲しく、そして悔しい事だった。

特にノンシュガーは初の、念願の、そらみスマイルですら実現していない、ワンマンライブだったのである。

我々ファン達の落胆は尋常ならざるものだったし、プリパラの未来にも、いやプリチャンも含めたプリティーシリーズそのものについても暗雲が立ち込めた。

 

しかし、アイドル達の歌はいつだって希望を見失わない。

プリパラは再びその時を動かす。

 

2020年7月8日、アイドルタイムプリパラの人気ユニットWITH、その重大発表としてそれはやってきた。

彼らの人気曲「好きにしてIIZE」がまさかの3DCG化である。

 

youtu.be

 

これは凄い事だ。

何故ならプリティーシリーズとしては目下のところプリチャンを最優先で制作しており、これまでどれだけプリパラ側に王政復古の風が吹こうとも、タツノコプロ側としては距離を保っていたからだ。当然であろう。売る対象があって依頼が来て予算がついてはじめて制作されるのだ。その当てもないのに趣味や思い入れだけで作ったりしない。

逆に言えば、今こうして待望の、夢にまで見たプリパラの新作CGが発表されたという事は、これはどういう事か。つまりアニメサイドも巻き込んだプロジェクトがプリパラに展開中という事ではないだろうか。

 これはいつものユメ目じゃにゃあて。カッチカチの現実。論理的な未来予想図だみゃ。

 

 さらに来年度の話ではあるが、自粛と言う形で凍結されていたWITHのワンマンライブが正式に実施されると公表された。

その反響を受けて、ノンシュガーの「約束のてへぺろぴた」も恐らく再始動することだろうし、その先にはフレンドシップツアー2やまさかのプリパラとしての新作アニメ…なんて事も夢はもう夢じゃない、いやこれは本当に何度でもそんな事をあらゆる人が言っている気がするけど、本当に夢ではなくなってきた。

 困難な状況、理不尽な世界のシステムに対して、「私は私であるべくして私である」と立ち向かってゆく物語を描いてきたのがプリパラだ。

今、このような情勢にあって、プリパラが生きているという事、神アイドルの歌は鳴りやんではいない事、これは希望と言ってよいだろう。

 

 

アイドルタイムプリパラの先へ

 

さて、ここまでアフタープリパラの約2年間の思い出と、これからの展望に想いを馳せたが、あえて最後に全く逆の視点で語って筆をおきたい。

 

我らが神アイドル、森脇真琴監督のプリパラ後の動向だ。

 

周知のようにプリパラ後の2年間の間、森脇監督は既に新たな2本の監督作品を世に放っている。「Bプロジェクト~絶頂エモーション」と「魔入りました入間くん」である。

(もちろん他にもお仕事はたくさん抱えていらっしゃることだろうが)

 

そう、森脇監督はすでにプリパラの先にいるのだ。

 

 

森脇監督は恐らく来春放送予定の「入間くん」2期も担当する事だろう。

となれば、全く残念なことであるが少なくとも森脇監督によるプリパラの新作は近年中には望めない気がする。そして、これはプリパラが女児アニメであり、我々が今を生きる「女児」だからこそ重要な事だが、数年後に還ってくるプリパラがあるとしてもそれはきっとあの時と同じプリパラではない。

仮にプリパラ新作アニメがあるとして、それはアイドルタイムプリパラ2期なのだろうか。

それは違うと思っている。アイドルタイムプリパラ50話でまだ氷漬けにされている夢を持つからこそ、そう思う。

人も、世界も変わっていくのだ。

 

寝て見る夢は過去の記憶の整理なのだと言う。

では起きてみる夢はなんだろう。

それは未来への期待ではないだろうか。

そうだ、やっぱりユメ目は未来を見るための瞳なのだ。

 

だからそろそろ行こうか。

いや、本当はみんなもうアイドルタイムの先を歩いているのだ。

生きている限りは、どうしても、果てしなく。

女児たちに、思い出話は似合わない。

  

 

 

 

魔法の終わりは夢の終わりか

プリパラが終了してから早4か月が経過した夏。

私たちプリパラのファン、つまり【女児たち】は試練に立たされている。

 

8月3日、そのニュースは噂好きの【女児たち】の耳に飛び込んできた。

「プリティーオールフレンズの新グッズが夏コミにて企業ブースで商品展開」

折しも後継作「キラっとプリチャン」ではあの春音あいらにそっくりな謎の女性「あいら」が登場し(誰なんだろーなー、ほんとに(棒))、プリチャン筐体ではプリティーオールフレンズチャンネルなるものが生まれ、各種コラボ展開が続々と発表された矢先であり、「プリティーオールフレンズが何を目指してるのかわからないけれど、とにかく期待していいんだな」と、夏コミ直前ということもあって否が応にもボルテージが高まる・・・そんな「ゆめしあわせ」な真夏の一日に、それはやってきた。

爆弾であった。

長らく同じプリパラという夢で繋がった【女児たち】であった我々は、その爆風によって本来の姿へと逆プリパラチェンジ・・・化けの皮が剥がれたと言ってもいい、プリパラの中であれば抑え込めていた、もしくは許されていた、またはうまく付き合えていた、そんな見たくもない自分と他者の姿と向き合うことになった。

 

水着を着た女の子のキャラクターがプリントされたクッションカバー。

よくあるグッズである。

倫理観的にはともかく法的には二次元であるので全く問題はない。

プリティーオールフレンズはプリリズでもプリパラそのものでもなく「大人向け」ラインで企画されているのでコンセプト的には十分想定できる商品だ。

 そもそもこのプリティーシリーズは伝統的に「女児向け」な部分と「オタク向け」な部分が混在する作風で、常にそのバランスをうまく取りながら成立してきたシリーズであり、今回のグッズについても計画されていた販売方法含めてそのバランスをおおきく逸脱したとは思えない。

冷静に考えれば炎上するような事ではないのだ。 

にも関わらずこの商品は議論を呼び、ついには血みどろの内紛にまで発展してしまった。

しかも不思議な事に「プリティーオールフレンズの・・・」ではなく「プリパラの・・・」と捉えられがちであり、容認派も拒絶派も「プリパラとして」アリかナシかで語りがちである。

それは何故なのか、拒絶派は今回の件で何故公式から裏切られた気がしてしまうのか、容認派はどうして拒絶派を説き伏せて再び自分たちの側に引き戻したく思うのか、ネット上で騒いでる人達はみんな良い大人なんである、「気持ちが離れてしまった、お互いここでさようなら」それでよい・・・それで済むはずなのに、何故かそれができない。そこにこそ我々【女児たち】に入ってしまった亀裂の正体と悲しみがあるように思う。

 

 

 さて最初に断っておくが、私は今回、すでに色々なその道の専門家(揶揄を交えて敢えてこういう言い方をするのだが)が言及しているような「女児向けアニメが公式でこのような商品を発売するのは如何なものか」などという社会的にそれはそれは意義深い高尚な問題を語りたいわけではない。

それに関しては私個人としては「そんな今さらめんどくさいこと言うなし」という気分ではあるし、なんなら「残念でした~プリティーオールフレンズは女児向けじゃありません~」と小学生のように勝ち誇りたい気持ちもあるんだが、しかしそれを言ったところではっきり言って勝ち目はないし益もないだろう事は明らかなので、ここは早々に投了してしまって譲歩してしまうのが吉だと考える。

また、プリティーオールフレンズがどういう企画なのかという事の把握どころかプリパラとプリキュアの区別すらついていない輩が横から口出ししてきている現状も、それは腹立たしいのだが、しかし問題の性質上ゆめしかたない、いやいたしかたない事であり、今後の女児向けアニメとその周辺に対してのガイドラインのたたき台になれば良いと思う。

だからそっち方面の話題はここではしない。その道の人たちで大いにやって頂ければ宜しいかと思う。

 

 それで私はプリパラのオタクなので、オタクの視点から本件を論じさせていただく事にする。

またプリリズの方には実のところ思い入れがないため、もっぱらプリパラの側面から語らせていただくことを断っておきたい。

プリリズの側面からは往年のヤクザの兄貴分たちにお任せする。

 

それで内容というのは例によって非常に感傷的な話であるが、「俺たちのプリパラが壊れてしまった」という怒りと悲しみについてだ。

容認派も拒絶派もこの一点に関しては共有できる痛みだと思うし、まさにこの痛みこそが今回の件で最も反省されるべきものだと思う。

この一連の騒動でプリパラが失ってしまったもの、壊れてしまった大切な概念、それは「みんな友達、みんなアイドル」「We are Pripara」その感覚である。

 

 これに関してはまず前提として、「プリパラのファン層の多民族性」を考える必要があると思う。

ここでいう多民族というのはもちろん現実世界のそれではない。

TVアニメとその周辺コンテンツを受容するファンとしてのアイデンティティ、つまりその人がどういうオタクなのか、またはオタクではなくて所謂本来のターゲットなのか、その親御さんなのか、という問題だ。

実にプリパラのファン層は幅広い、というかある程度意図的にそうしてきたのだと感じる。

つまりアイドルアニメが好きな人たち、女児アニメが好きな人たち、プリティーリズムが好きな人たち、森脇アニメが好きな人たち、i☆Risのファンたち、特に二期以降の新キャラの声優ファンたち、アイドルコンテンツそのものが好きな人たち、あと菱田親分が好きすぎる人達(笑)・・・そういう雑多なオタクたちと女児先輩とその親を巧妙に取り込んで、ここまで発展してきたコンテンツと言える。

それはプリパラ自体が持っている多様性を保証するコンセプトとそれに基づいた作品メッセージと相まって、ある種「プリパラだけが持っている特殊磁場」のようなものを生み出しており、居心地の良いひとつの解放区だったのだ。

それこそが「みんな友達、みんなアイドル」である。

 多種多様なオタクたちと、そして女児先輩とその親たち、本来なら同じ夢など見ようはずもないのだが、プリパラという空間がそうさせたのだ。

いつだったか公式が大人のファン層を「本来のターゲット層」扱いし始めたが(あくまでネタの範疇で)それすらも実は仕掛けられた没入感の補強に他ならない。

プリパラを好きな人間はみなプリパラアイドルであり、例えばプリチケを筐体にスキャンしたとき、火曜日5時55分にチャンネルをテレビ東京系に合わせるとき、応援上映でタガの外れたガヤと化すとき、SNSであの回はどうだったあのネタは狂ってたとかあじみ先生やべーとか語ったり検索したりするとき、それは紛れもなくプリパラにいる時間であり、我々はまさしくプリパラによって幸福権を保証された【女児たち】であり、その限りにおいて「みんな友達」だった。

 

今回の騒動によって壊れてしまったのは、まさしくそのプリパラという幻想そのものである。

冒頭で私は、その爆風によって化けの皮が剥がれてしまった、と表現した。

それは女児のお面をかぶったロリコンの素顔が明るみに出た・・・という意味だけではない。逆もしかりだ、温和な表情の裏にロリコン絶対殺すマンの尻尾を出した人もいる。

・・・と言ったら少し言葉が過ぎたか。私もだいぶ仮面が外れている。自重しよう。

つまりそれぞれの出自が明らかになったと言いたいのだ。

 別にそれ自体は良いのだが、多様性を根幹に置いてきたプリパラだからこそ、本来相いれない二者が共存していたのはむしろ平和の象徴でもあり誇りでもあるのだが、ひとたび抗争が起きたことで必要以上に互いを傷つけあって、結果として理想郷としてのプリパラへの無邪気な夢さえもが薄らいでいく様は、長く【女児たち】として生きてきた自覚を持っている身としては耐え難い哀しみである。

「同じ花を見ていたわけじゃなかった」その当たり前の事実を知ってしまったこと、それが悲しい。

 

【みんながゆめ幸せなプリパラ】へと走り出したあのアイドルタイムプリパラの最終回、あの真っ白な未来の先で待っていたのがこのような現実だったとすれば、やはり時計の針なんて回すべきでは無かったのかもしれない。

しかしこれは遅かれ早かれ発生した事態とも思う。今回のビッグクッション云々はトリガーにすぎない。

多種多様な愛を受け止めて一つに束ねてきたプリパラという神はすでにこの4月からいない。

かけがえのない思い出と生きていくべきやるせない現実が、消えずに残っている。

それでも私は思うのだ。

「みんな友達、みんなアイドル」この魔法はきっともうとっくに効果を失っていて、我々は二度と【女児たち】にはなれないのかもしれないけれど、それでも信じたい。

5か月前、確かに同じ涙を流していた筈だと。

いつか再びプリパラで「同じ花を見ている」と錯覚する事ができればよいな、と。

例え魔法が解けても、幸せのプリパラへの夢を見ていたいのだ。

 

私が今回の件に関して言いたいのは、単にそういう、ひとりのオタクが思う身勝手な、この期に及んでユメの話である。

 

最期のプリパラ待機ぷり

あと30分もせずに、プリパラが最終回を迎えてしまう。

とりとめもないことは言いたくないなどと、もうそんな場合ではない。

 

・・・少し、自分の話をさせてほしい。

 

思い返せば、なかなかの人生の転機でプリパラと出会って、そして坂道を転がるように浸食されてしまったな、と思う。

でもそれは幸せな時間だった、誓って!!

あの頃、ミュージシャンを志し、上京して、全然ダメで、友達も利己的な私に愛想をつかして、何もかも絶望して、実家に帰り、そのあと地元の音楽仲間とは割と仲良くやれて、少しばかりチヤホヤもされて、でも現実と憧れとのギャップが埋めがたく、認めがたく、お金もどんどんなくなったし、いい曲はできないし、理解もされないし、それでとうとう色々あきらめもついて、真面目に働くことにした。それが丁度2014年。

今までと比べて少し金銭的にも余裕が出来たし、もう夢とか大げさに言わないし、たまに演奏できればそれでいいか、それでいいよね、しょせんそんなもんだ・・・と折り合いをつけた頃、気付けばあと1週間と少しで30歳だよという焦燥の夏、まさにその時だ、プリパラに出会ったのは。

 

「みんな友達、みんなアイドル」

心底ため息が出たね。嘘だねって思ったよ。

友達も、アイドルも、遠い世界の概念だと思っていたから。

そうだ、認めるよ。

私はそれが欲しくて欲しくて、たまらなかったんだ。

世界に私の居場所を見つけたかったんだ。

でもプリパラは別に私に居場所をくれたわけじゃない。

既に大人になっていた私には、その世界は眩し過ぎたし、理想を語りすぎたし、

好きになればなるほど、渇望すればするほど、もう届かない夢だと思い知るばかりだった。

パックに捕らわれていた夢、その中に確かに私のかつて抱いた夢もあったような気がしたけれど、でもそれはもう戻ってこない。今更、戻ってきたところでどうしようもない。だからそれは空に預けた。それでいいと思ってるし、私は十分救われた気がした。

プリパラは私にとって、いつだってそんな、自分の居場所のなさ、何処にも行けなさを思い知らせてくれる世界だったんだ。現実の世界以上に。・・・それってちょっと問題ありだなと自分でも思うけれども。

 

そしてプリパラが終わる今、私は未だ何者でもない。

友達と呼べる人が増えたかどうかは疑わしい。

アイドルには、もちろんなれていない。

けれど何かが違っている気がする。

いや、違っていなければならない。

それが、それこそが、3年9か月プリパラを見てきた意味だ。

明日からの自分が生きる世界が、新しい夢なのか、夢の続きなのか、それとも本当の終わりなのか・・・分からないけれど、大丈夫だ、私は世界を好きになる事ができる。

それをプリパラは教えてくれた。

 

 

 

ああ、みれぃ、もう一度、もう一度だけあの言葉を言ってくれ。

そしたら絶対に返すから、きっと大丈夫だと返すから。

 

「プリパラは好きぷり?」

 

大好きだよ。ありがとう。

 

古代プリパラのあのテーマをギター曲にしてみたよ

プリパラが終わることに嘆き悲しむのはもうやめだ。

できることをしよう。女児として、そしてミュージシャンの端くれとして。

 

ってことでアイドルタイムプリパラのメインテーマとも言うべきこの悲しい曲をギター独奏曲にしてみたですよ。

31話ではじめてこの曲が流れた時は、いつも聞いていたパパラ宿のテーマが実はこんな悲劇的なモチーフだったんだと分かって泣いてしまいましたことよ。

 

 

・・・そう、私にできるのはこれぐらいだ。

今までも何曲かギター曲に編曲してきたけど、これからはプリパラが終わるまで、いや終わっても、できるだけプリパラ関係の曲を編曲して行こうと思う。

それが女児として生きたこの4年間の、私のけじめ。アイドルタイムの意味としたい。

 

プリズムの欠片、虹のギフト

 

2018年1月24日、来るべき時が来た。

 

プリティーシリーズ最新作、「キラッとプリ☆チャン」の発表。

それは、プリパラの終焉を告げる黙示録のラッパだった。

 

実を言うと全然、青天の霹靂ではなかった。

はっきりと、予感していた。きっと誰もが心で感じていたのだろうと思う。

夢の終わりが近づいているだろう事を。この夢は、必ず醒めなければならないものだと。

 

とっくに覚悟はできていたはずだ。それなのに、まるで駄々をこねる子供のように事実を受け入れられない。

あまりにも女児になりすぎたんだ。

よく「~は人生」という言い方があるが、やっとわかった、プリパラは人生だ。

いつの頃からか、好きとか嫌いとかを超越した、自分の一部になってしまった。

だからその終わりはまさしく死そのものなのだ。

 

 

 

 

虚ろな心で、我知らず一つの映画をBDドライブに再生させていた。

2015年春、プリパラが2年目に突入しようとする直前に公開された、

「劇場版プリパラ みーんなあつまれ!プリズム☆ツアーズ」だ。

 

・・・・開始早々、らぁらが現れた瞬間に、嗚咽を漏らした。

昼間に公式アカウントからの発表を見た時も、その後の声優さんたちの愛あふれるメッセージを読んだ時も、泣かなかったのに。泣けなかったのに。

色々な感情が駆け巡って、プリパラが過去の物になろうとしていると、ようやく実感できたからかもしれない。

  

 

 

 

当時、私はこの映画を「銀河鉄道の夜」と評した。

プリティーリズムというカムパネルラからプリパラというジョバンニへ、プリズムの煌めきの授与式なのだ、と。

けれどその時はまだ、その本当の意味を半分しか理解できていなかったように思う。

あのとき私たちプリパラの女児は、電車に乗って帰ってゆくジョバンニの方だったから。

でもジョバンニもいつかカムパネルラになる。

いつの間にか、プリパラは渡す側の存在になっていたのだ。

新しいジョバンニに、煌めきを渡さなければならない。

そんな日が必ず来ることを、忘れたふりをしてきた。忘れられるわけもなく。

 

 

らぁら達が受け取ったプリズムストーンはプリチケになって、世界に煌めきを広げ続け、そしてまた新しい世界に受け渡される。

諸行無常と言えば気取りすぎ、大人の事情と言えば悟りすぎているが、けれどこの引き継ぎには意味がある。それを描いていたのがこの「プリズムツアーズ」だったのだ。

そしてその意味は、ジョバンニの立場で見送られ、カムパネルラの立場から見送ることではじめて実感を伴って目の前に現れた。

 

そこで改めて思う。受け渡されてゆくプリズムの煌めきとはなんなのだろうか。

プリティーリズムの親分、菱田監督はかつてこう言った。

「煌めきのない人間なんていません」と。

名言である。

そう、誰もが煌めきを持っている。

オーロラドリーム、ディアマイフューチャー、レインボーライブ、そしてプリパラ、キングオブプリズム・・・アイドルタイム・・・それぞれの世界で、それぞれのやり方で、そのことは繰り返し描かれてきた。

「お前の歌をいちばん上手く歌えるのは、俺だ!」と言う事と、

「あなたがプリパラに来るのを、あたし待ってる」と言う事は、

実は同じ意味なんだ。

プリズムとは光を分散させ、屈折させる、それ自体は透明な多面体のことである。

誰もがプリズムを持っているということは、つまり同じ光を当てられても、その人のいる場所、持っているプリズムの形、そして屈折した光が映し出されるスクリーンの特性によって、結ぶ像が違うものになるという事だ。

これが「みんな友達、みんなアイドル」だ。

みんなプリズムを持っている、だから輝ける、誰かの輝きを感じることができる。

それは違っていていい、分かり合えなくってもいい、煌めいている、それだけで良い。

そんな夢みたいな夢を信じさせてくれるのが、アイドルであり、友達だったんだ。

 

そうだ、プリズムの煌めきを伝えるのがプリズムワールドの使者ならば、やはり私たちにとって真中らぁらは使者の一人だったのだ。

いや、らぁらだけではない、プリパラの全てのアイドル達、ガヤが荒ぶりすぎている名前のないアイドルたち、次元を隔てた場所にいる我々だって、みんなひとしくプリズムワールドの使者になりえる。

きっと誰もがりんねに出会っている。誰もがジュルルをその腕に抱いている。そして誰もがプリズムスタァに、アイドルに、友達になれる、夢を持てる。

私たちは誰でも、プリズムの伝道者であり、同時にいつだって煌めきを受け取る次の誰かなのだ。

それは虹のギフト、夢を届けるメッセンジャー

「ママ、私ね、前からやってみたい仕事があったの」

「どこで覚えたのかは忘れてしまったの。でもとっても素敵な言葉でしょ。新しい世界にたくさんのハピなるを届けに行くわよ」

 

「世界が煌めいて見える」と思った瞬間に、人は使命を帯びる。

大好きな人に、まだ見ぬ誰かに、少し苦手なあの人に、喧嘩別れしたあの子に、

この煌めきを伝えたい、伝えなければならない、と。

Rinne will come next to you  ・・・次は君の番さ。そう、いつだって、誰だって、そこからはじまる。世界が滅んだって、けして、忘れない。

 

 

プリパラは人生である。

人生だからこそ、立ち止まってはいられない。

いつか必ず来る人生の終わり、その時まで、煌めきを渡し渡され、明日を紡いでいくものだ。

そのことを教えてくれたのがプリパラだから、だから行かなくちゃ。

 

「プリパラは好きぷり?じゃあ大丈夫、できるぷり」

・・・大丈夫、だいじょうぶ。

中学生になることは怖くない。未来はプリズムを通して見える不確定のまだ見ぬ自分。

 時計の針、回そう。

 

終末によせる歌は

2018年もはじまり、1月を半ばすぎてからいうのもなんだが、

改めて、少女終末旅行によせて、詩情をひろげよう。

なお、原作は未読であるので、材料がアニメ版だけなのは申し訳ない。

 

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旅も、人生も、終わるまでは終われない。誰もその旅を、勝手に終わらせてなどはくれない。

  「ね、怖くない」と言う代わりにエリンギは告げる、「我々は生きている人間を食べたりしない」と。

それはもしかして、何よりも絶望的な希望なのかもしれない。

 まさしく「終わるまでは終わらないよ」なのである。終わりは向こうから勝手にやってくるものではない。終末とは自分自身で、潔くあるいは無様に、清々しさと未練と恨みと愛情とを持って、そっと引導を渡すものなのだ。

 

終わりの約束された世界で、チトとユーリは生きている。

補給して、進んで、補給して、また進んで、いつ報われるとも知れない旅路、それでも生きていく。

それは我々とて同じだ。我々もまた、穏やかで焦燥にまみれた人生という旅を過ごしていく。仕事して、寝て、仕事して、寝て、たまに遊んで、また仕事して・・・いや、ここで現代日本の歪みの話をしたいわけではない。

そうではなく、これは「存在は有限である」という事実を、知識としても実感としても知っている唯一の生き物である人間が、いつの時代も抱いてしまう生きる事のつらさのことである。

 

極論を言えば生きる事とは死に向かって行くことであり、出会いとは別れの始まりであり、すべての歌は終止線に向けてその旋律を紡ぎ、そして一度流れ出したその波は、途中で途絶えることはない。

この少女終末旅行という物語は、そんな不毛な生きるという行為について、2人がどのような意味を見出すのか、そういう話だったと思うのだ。

 

歌は自らの心をゆらして、また他者へと伝える共感の波。

レクイエムは穏やかに。旅のお供の口笛は、軽やかに。

「いつか月まで行こう」と歌う彼女らは、その手を繋ぎ続けているかぎり、終末を見る事はないだろう。

「終わるまでは終わらないよ」と何度も何度も聴いた2人の言葉は、それは希望そのものであった。