プリパラとはなんだったのだろう
春風は別れと出会いを連れてくる。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2017年3月28日
それはプリチケが届くように、突然に訪れる事件。
恐れるな。
新しいチケットを手折って、新しい自分へ。
きっとまだ見ぬ誰かも、届いたばかりの真新しいチケットを持っているはずだから。
心を渡し合うために、人は出会う。
#pripara
物事の終わりはいつもそうであるように、じわじわと喪失感が心を包んできた。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2017年3月28日
ああ、本当に終わったんだ。
引き継ぎ式や卒業式や入学式やら、何かと慌ただしく過ぎてしまい寂しさを考える余裕がないのは、きっと世界の都合の良さのひとつ。
そんな優しい最終回だった。
#pripara
理論上は正しいはずのファルルの法則。しかし未だに現実では証明されていない。実の所プリパラの中でさえ定理とは言えない。幼い願いで手を繋げるほどみんな純粋じゃないから、それで争いばかり。でもだからこそ夢を見る。世界平和じゃない、君と友達になりたいという願いだ。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2017年3月28日
#pripara
先日、2年9か月ものあいだ私の人生を浸食し続けたTVアニメ「プリパラ」が堂々の最終回を迎えた。
冒頭は最終回リアルタイム試聴後の興奮冷めやらぬツイートなのだが、まさにこれが私にとってプリパラがどういう存在であったのかの答えほぼそのままだ。
「みーんな友達、みーんなアイドル」
このキャッチコピーを証明したファルルの法則は、でもたぶん夢物語であろう。
それはわかっている。
笑顔が10倍になるのに比例して負の感情も増えていくということを、子供達もいつかきっと知るだろう。
それでも、やはり信じていきたい。ファルルの法則を胸にしまって。
プリパラを見て「女児になる」(公式がプリパラユーザーはみんな統計上は女児だと言っているんです)ということは、ファルルの法則を信じたい自分を再確認することだと思うのです。
きっと、プリチケをパキるという行為は、人類の本能なのではないでしょうか。
ループル美術館に収蔵された世界最古のプリチケがそれを教えてくれる気がします。
ああプリパラは、どこまでも他者にトモチケを渡すための物語だったのだ。
それは世界で最も簡単で、そして勇気のいる一歩だ。
はじめに ~詩と二次元世界への恋
アニメーションと詩は相性が良いと思っている。
両者とも、こちらからお邪魔しますと扉を叩かなければ、何も語り掛けることはない内気な文学だ。
例えば日曜朝、プリキュアを見て、いわゆる普通の人が絶対に流すことはない類の涙をこぼす。
その瞬間、私は世の人からヲタクと呼ばれる生き方をしていることに、感謝と誇りを持つのだ。
良い年してアニメばかり・・・それは逃避だと、言う人もいる。
そうかもしれない。実際わたし自身も多少の恥ずかしさと巨大な後ろめたさを常に感じている。
だがこれだけは言おう。
二次元に対峙して生きることは、けして楽ではない。
それは一方通行の恋を受け入れるという生き方だ。
なぜなら彼ら彼女らは、私たちに笑いかけることも、拒絶することもけしてない。
彼の世界の破滅も救済も、しょせんは私たちに何らの影響を及ぼすこともない。
それどころか別時空の彼ら彼女らが活躍するたびに、
自らがいかに矮小な存在であることを、
またこの先も何者にもなれないであろうことを、
思い知って、
憧れて、
そしてまた人生を呪う。
そんなネガティブな人生賛歌に社会的な価値はないことはわかっているが、
しかしそこから生まれるもの、それは詩とよく似た内向きの力を持っていると思う。
誰の為でもない、何を為すこともない。
しかしいつか何処かへたどり着くかもしれない、
もしかして、受け取る人だっているかもしれないと少しは期待して風に飛ばす、
そんな未来への手紙だ。