プリズムの欠片、虹のギフト
出会いはいつか来るべき別れのアイドルタイムだったのだろうか。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2018年1月24日
ありがとうの代わりに好きって言わせて…じゃあ、さよならの代わりには何を言えばいいの?
分かっていた…分かっていたはずだが…まるで幼子のように現実を受け入れられない。
…なんも言えねえぷり。#pripara #prichan
2018年1月24日、来るべき時が来た。
プリティーシリーズ最新作、「キラッとプリ☆チャン」の発表。
それは、プリパラの終焉を告げる黙示録のラッパだった。
実を言うと全然、青天の霹靂ではなかった。
はっきりと、予感していた。きっと誰もが心で感じていたのだろうと思う。
夢の終わりが近づいているだろう事を。この夢は、必ず醒めなければならないものだと。
分かっていたんだよ、アイドルタイムプリパラは夢の続きなんだって。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2018年1月24日
本当はあの3月に、この夢は終わっていたはずで、私たちは少し長すぎるぐらいに惰眠を貪っていただけなんだ。
「朝を呼ぶのよ、ベルのシャイニング」
そうだ、誰も夜明けからは逃げられない。分かってたはずなのにね。
#pripara
とっくに覚悟はできていたはずだ。それなのに、まるで駄々をこねる子供のように事実を受け入れられない。
あまりにも女児になりすぎたんだ。
よく「~は人生」という言い方があるが、やっとわかった、プリパラは人生だ。
いつの頃からか、好きとか嫌いとかを超越した、自分の一部になってしまった。
だからその終わりはまさしく死そのものなのだ。
虚ろな心で、我知らず一つの映画をBDドライブに再生させていた。
2015年春、プリパラが2年目に突入しようとする直前に公開された、
「劇場版プリパラ みーんなあつまれ!プリズム☆ツアーズ」だ。
・・・・開始早々、らぁらが現れた瞬間に、嗚咽を漏らした。
昼間に公式アカウントからの発表を見た時も、その後の声優さんたちの愛あふれるメッセージを読んだ時も、泣かなかったのに。泣けなかったのに。
色々な感情が駆け巡って、プリパラが過去の物になろうとしていると、ようやく実感できたからかもしれない。
劇場版、見てきたぷり…。ある意味あっと言う間に終わってしまうのだけど、そのあっと言う間が濃過ぎて、とても長い長い旅をした気になれる映画だった。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2015年3月10日
そしてガチで泣いた。
僕はプリパラから入った人間だけど、それでもクライマックスで泣いた。
#えいがプリパラ #pripara
「プリティーリズムはもうできない」、この残酷な大人の事情を、一つの世界の終わりと継承という形で物語にしたのは本当に凄い。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2015年3月10日
これは銀河鉄道の夜だ。列車から降りたらぁら達は、明日の世界へと走ってゆく。
それはいつかプリパラが終わる時の、次代への希望でもある。#えいがプリパラ
当時、私はこの映画を「銀河鉄道の夜」と評した。
プリティーリズムというカムパネルラからプリパラというジョバンニへ、プリズムの煌めきの授与式なのだ、と。
けれどその時はまだ、その本当の意味を半分しか理解できていなかったように思う。
あのとき私たちプリパラの女児は、電車に乗って帰ってゆくジョバンニの方だったから。
でもジョバンニもいつかカムパネルラになる。
いつの間にか、プリパラは渡す側の存在になっていたのだ。
新しいジョバンニに、煌めきを渡さなければならない。
そんな日が必ず来ることを、忘れたふりをしてきた。忘れられるわけもなく。
心の準備はできていた筈なのだが、プリズムツアーズであいら達に手を振った時から。今はあの時と反対側、壊れゆく世界で、去りゆく電車に手を振っている。こんなに好きになるつもりはなかった。プリパラは、私の人生の一部になりすぎたんだ。今なら分かる、今こそ歌いたい、あの始まりと別れの歌を。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2018年1月24日
らぁら達が受け取ったプリズムストーンはプリチケになって、世界に煌めきを広げ続け、そしてまた新しい世界に受け渡される。
諸行無常と言えば気取りすぎ、大人の事情と言えば悟りすぎているが、けれどこの引き継ぎには意味がある。それを描いていたのがこの「プリズムツアーズ」だったのだ。
そしてその意味は、ジョバンニの立場で見送られ、カムパネルラの立場から見送ることではじめて実感を伴って目の前に現れた。
そこで改めて思う。受け渡されてゆくプリズムの煌めきとはなんなのだろうか。
プリティーリズムの親分、菱田監督はかつてこう言った。
「煌めきのない人間なんていません」と。
名言である。
そう、誰もが煌めきを持っている。
オーロラドリーム、ディアマイフューチャー、レインボーライブ、そしてプリパラ、キングオブプリズム・・・アイドルタイム・・・それぞれの世界で、それぞれのやり方で、そのことは繰り返し描かれてきた。
「お前の歌をいちばん上手く歌えるのは、俺だ!」と言う事と、
「あなたがプリパラに来るのを、あたし待ってる」と言う事は、
実は同じ意味なんだ。
プリズムとは光を分散させ、屈折させる、それ自体は透明な多面体のことである。
誰もがプリズムを持っているということは、つまり同じ光を当てられても、その人のいる場所、持っているプリズムの形、そして屈折した光が映し出されるスクリーンの特性によって、結ぶ像が違うものになるという事だ。
これが「みんな友達、みんなアイドル」だ。
みんなプリズムを持っている、だから輝ける、誰かの輝きを感じることができる。
それは違っていていい、分かり合えなくってもいい、煌めいている、それだけで良い。
そんな夢みたいな夢を信じさせてくれるのが、アイドルであり、友達だったんだ。
そうだ、プリズムの煌めきを伝えるのがプリズムワールドの使者ならば、やはり私たちにとって真中らぁらは使者の一人だったのだ。
いや、らぁらだけではない、プリパラの全てのアイドル達、ガヤが荒ぶりすぎている名前のないアイドルたち、次元を隔てた場所にいる我々だって、みんなひとしくプリズムワールドの使者になりえる。
きっと誰もがりんねに出会っている。誰もがジュルルをその腕に抱いている。そして誰もがプリズムスタァに、アイドルに、友達になれる、夢を持てる。
私たちは誰でも、プリズムの伝道者であり、同時にいつだって煌めきを受け取る次の誰かなのだ。
それは虹のギフト、夢を届けるメッセンジャー。
「ママ、私ね、前からやってみたい仕事があったの」
「どこで覚えたのかは忘れてしまったの。でもとっても素敵な言葉でしょ。新しい世界にたくさんのハピなるを届けに行くわよ」
「世界が煌めいて見える」と思った瞬間に、人は使命を帯びる。
大好きな人に、まだ見ぬ誰かに、少し苦手なあの人に、喧嘩別れしたあの子に、
この煌めきを伝えたい、伝えなければならない、と。
Rinne will come next to you ・・・次は君の番さ。そう、いつだって、誰だって、そこからはじまる。世界が滅んだって、けして、忘れない。
プリパラは人生である。
人生だからこそ、立ち止まってはいられない。
いつか必ず来る人生の終わり、その時まで、煌めきを渡し渡され、明日を紡いでいくものだ。
そのことを教えてくれたのがプリパラだから、だから行かなくちゃ。
「プリパラは好きぷり?じゃあ大丈夫、できるぷり」
・・・大丈夫、だいじょうぶ。
中学生になることは怖くない。未来はプリズムを通して見える不確定のまだ見ぬ自分。
時計の針、回そう。