古代プリパラのあのテーマをギター曲にしてみたよ
プリパラが終わることに嘆き悲しむのはもうやめだ。
できることをしよう。女児として、そしてミュージシャンの端くれとして。
ってことでアイドルタイムプリパラのメインテーマとも言うべきこの悲しい曲をギター独奏曲にしてみたですよ。
31話ではじめてこの曲が流れた時は、いつも聞いていたパパラ宿のテーマが実はこんな悲劇的なモチーフだったんだと分かって泣いてしまいましたことよ。
・・・そう、私にできるのはこれぐらいだ。
今までも何曲かギター曲に編曲してきたけど、これからはプリパラが終わるまで、いや終わっても、できるだけプリパラ関係の曲を編曲して行こうと思う。
それが女児として生きたこの4年間の、私のけじめ。アイドルタイムの意味としたい。
プリズムの欠片、虹のギフト
出会いはいつか来るべき別れのアイドルタイムだったのだろうか。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2018年1月24日
ありがとうの代わりに好きって言わせて…じゃあ、さよならの代わりには何を言えばいいの?
分かっていた…分かっていたはずだが…まるで幼子のように現実を受け入れられない。
…なんも言えねえぷり。#pripara #prichan
2018年1月24日、来るべき時が来た。
プリティーシリーズ最新作、「キラッとプリ☆チャン」の発表。
それは、プリパラの終焉を告げる黙示録のラッパだった。
実を言うと全然、青天の霹靂ではなかった。
はっきりと、予感していた。きっと誰もが心で感じていたのだろうと思う。
夢の終わりが近づいているだろう事を。この夢は、必ず醒めなければならないものだと。
分かっていたんだよ、アイドルタイムプリパラは夢の続きなんだって。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2018年1月24日
本当はあの3月に、この夢は終わっていたはずで、私たちは少し長すぎるぐらいに惰眠を貪っていただけなんだ。
「朝を呼ぶのよ、ベルのシャイニング」
そうだ、誰も夜明けからは逃げられない。分かってたはずなのにね。
#pripara
とっくに覚悟はできていたはずだ。それなのに、まるで駄々をこねる子供のように事実を受け入れられない。
あまりにも女児になりすぎたんだ。
よく「~は人生」という言い方があるが、やっとわかった、プリパラは人生だ。
いつの頃からか、好きとか嫌いとかを超越した、自分の一部になってしまった。
だからその終わりはまさしく死そのものなのだ。
虚ろな心で、我知らず一つの映画をBDドライブに再生させていた。
2015年春、プリパラが2年目に突入しようとする直前に公開された、
「劇場版プリパラ みーんなあつまれ!プリズム☆ツアーズ」だ。
・・・・開始早々、らぁらが現れた瞬間に、嗚咽を漏らした。
昼間に公式アカウントからの発表を見た時も、その後の声優さんたちの愛あふれるメッセージを読んだ時も、泣かなかったのに。泣けなかったのに。
色々な感情が駆け巡って、プリパラが過去の物になろうとしていると、ようやく実感できたからかもしれない。
劇場版、見てきたぷり…。ある意味あっと言う間に終わってしまうのだけど、そのあっと言う間が濃過ぎて、とても長い長い旅をした気になれる映画だった。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2015年3月10日
そしてガチで泣いた。
僕はプリパラから入った人間だけど、それでもクライマックスで泣いた。
#えいがプリパラ #pripara
「プリティーリズムはもうできない」、この残酷な大人の事情を、一つの世界の終わりと継承という形で物語にしたのは本当に凄い。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2015年3月10日
これは銀河鉄道の夜だ。列車から降りたらぁら達は、明日の世界へと走ってゆく。
それはいつかプリパラが終わる時の、次代への希望でもある。#えいがプリパラ
当時、私はこの映画を「銀河鉄道の夜」と評した。
プリティーリズムというカムパネルラからプリパラというジョバンニへ、プリズムの煌めきの授与式なのだ、と。
けれどその時はまだ、その本当の意味を半分しか理解できていなかったように思う。
あのとき私たちプリパラの女児は、電車に乗って帰ってゆくジョバンニの方だったから。
でもジョバンニもいつかカムパネルラになる。
いつの間にか、プリパラは渡す側の存在になっていたのだ。
新しいジョバンニに、煌めきを渡さなければならない。
そんな日が必ず来ることを、忘れたふりをしてきた。忘れられるわけもなく。
心の準備はできていた筈なのだが、プリズムツアーズであいら達に手を振った時から。今はあの時と反対側、壊れゆく世界で、去りゆく電車に手を振っている。こんなに好きになるつもりはなかった。プリパラは、私の人生の一部になりすぎたんだ。今なら分かる、今こそ歌いたい、あの始まりと別れの歌を。
— 鈴木涼 (クロネコナイフ) (@halukuku69) 2018年1月24日
らぁら達が受け取ったプリズムストーンはプリチケになって、世界に煌めきを広げ続け、そしてまた新しい世界に受け渡される。
諸行無常と言えば気取りすぎ、大人の事情と言えば悟りすぎているが、けれどこの引き継ぎには意味がある。それを描いていたのがこの「プリズムツアーズ」だったのだ。
そしてその意味は、ジョバンニの立場で見送られ、カムパネルラの立場から見送ることではじめて実感を伴って目の前に現れた。
そこで改めて思う。受け渡されてゆくプリズムの煌めきとはなんなのだろうか。
プリティーリズムの親分、菱田監督はかつてこう言った。
「煌めきのない人間なんていません」と。
名言である。
そう、誰もが煌めきを持っている。
オーロラドリーム、ディアマイフューチャー、レインボーライブ、そしてプリパラ、キングオブプリズム・・・アイドルタイム・・・それぞれの世界で、それぞれのやり方で、そのことは繰り返し描かれてきた。
「お前の歌をいちばん上手く歌えるのは、俺だ!」と言う事と、
「あなたがプリパラに来るのを、あたし待ってる」と言う事は、
実は同じ意味なんだ。
プリズムとは光を分散させ、屈折させる、それ自体は透明な多面体のことである。
誰もがプリズムを持っているということは、つまり同じ光を当てられても、その人のいる場所、持っているプリズムの形、そして屈折した光が映し出されるスクリーンの特性によって、結ぶ像が違うものになるという事だ。
これが「みんな友達、みんなアイドル」だ。
みんなプリズムを持っている、だから輝ける、誰かの輝きを感じることができる。
それは違っていていい、分かり合えなくってもいい、煌めいている、それだけで良い。
そんな夢みたいな夢を信じさせてくれるのが、アイドルであり、友達だったんだ。
そうだ、プリズムの煌めきを伝えるのがプリズムワールドの使者ならば、やはり私たちにとって真中らぁらは使者の一人だったのだ。
いや、らぁらだけではない、プリパラの全てのアイドル達、ガヤが荒ぶりすぎている名前のないアイドルたち、次元を隔てた場所にいる我々だって、みんなひとしくプリズムワールドの使者になりえる。
きっと誰もがりんねに出会っている。誰もがジュルルをその腕に抱いている。そして誰もがプリズムスタァに、アイドルに、友達になれる、夢を持てる。
私たちは誰でも、プリズムの伝道者であり、同時にいつだって煌めきを受け取る次の誰かなのだ。
それは虹のギフト、夢を届けるメッセンジャー。
「ママ、私ね、前からやってみたい仕事があったの」
「どこで覚えたのかは忘れてしまったの。でもとっても素敵な言葉でしょ。新しい世界にたくさんのハピなるを届けに行くわよ」
「世界が煌めいて見える」と思った瞬間に、人は使命を帯びる。
大好きな人に、まだ見ぬ誰かに、少し苦手なあの人に、喧嘩別れしたあの子に、
この煌めきを伝えたい、伝えなければならない、と。
Rinne will come next to you ・・・次は君の番さ。そう、いつだって、誰だって、そこからはじまる。世界が滅んだって、けして、忘れない。
プリパラは人生である。
人生だからこそ、立ち止まってはいられない。
いつか必ず来る人生の終わり、その時まで、煌めきを渡し渡され、明日を紡いでいくものだ。
そのことを教えてくれたのがプリパラだから、だから行かなくちゃ。
「プリパラは好きぷり?じゃあ大丈夫、できるぷり」
・・・大丈夫、だいじょうぶ。
中学生になることは怖くない。未来はプリズムを通して見える不確定のまだ見ぬ自分。
時計の針、回そう。
終末によせる歌は
2018年もはじまり、1月を半ばすぎてからいうのもなんだが、
改めて、少女終末旅行によせて、詩情をひろげよう。
なお、原作は未読であるので、材料がアニメ版だけなのは申し訳ない。
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旅も、人生も、終わるまでは終われない。誰もその旅を、勝手に終わらせてなどはくれない。
「ね、怖くない」と言う代わりにエリンギは告げる、「我々は生きている人間を食べたりしない」と。
それはもしかして、何よりも絶望的な希望なのかもしれない。
まさしく「終わるまでは終わらないよ」なのである。終わりは向こうから勝手にやってくるものではない。終末とは自分自身で、潔くあるいは無様に、清々しさと未練と恨みと愛情とを持って、そっと引導を渡すものなのだ。
終わりの約束された世界で、チトとユーリは生きている。
補給して、進んで、補給して、また進んで、いつ報われるとも知れない旅路、それでも生きていく。
それは我々とて同じだ。我々もまた、穏やかで焦燥にまみれた人生という旅を過ごしていく。仕事して、寝て、仕事して、寝て、たまに遊んで、また仕事して・・・いや、ここで現代日本の歪みの話をしたいわけではない。
そうではなく、これは「存在は有限である」という事実を、知識としても実感としても知っている唯一の生き物である人間が、いつの時代も抱いてしまう生きる事のつらさのことである。
極論を言えば生きる事とは死に向かって行くことであり、出会いとは別れの始まりであり、すべての歌は終止線に向けてその旋律を紡ぎ、そして一度流れ出したその波は、途中で途絶えることはない。
この少女終末旅行という物語は、そんな不毛な生きるという行為について、2人がどのような意味を見出すのか、そういう話だったと思うのだ。
歌は自らの心をゆらして、また他者へと伝える共感の波。
レクイエムは穏やかに。旅のお供の口笛は、軽やかに。
「いつか月まで行こう」と歌う彼女らは、その手を繋ぎ続けているかぎり、終末を見る事はないだろう。
「終わるまでは終わらないよ」と何度も何度も聴いた2人の言葉は、それは希望そのものであった。
テップルに会いたかった星
この話は年内にしておかねばなるまい。
先ごろついにDVDが発売された「映画ここたま テップルとドキドキここたま界」についてだ。
この映画、今さら語れないほどに名作である。
まずこころちゃんが可愛い、大天使・・・なだけではない。
いや、最終的にはそこに集約されるんだが、この映画の価値はそこではない。
この映画が2017年という現代に世に放たれた意味は、人間と物との関係性を問い直したという点にある。
それはリサイクルという今や当たり前となった概念、循環する世界とその中に生きる自分を見つめなおそうというメッセージだ。
そうリサイクル、この映画はリサイクルの話なのだ。
なんのリサイクルか、それは愛だ。人と物の間を循環する愛。
では、愛はどのようにRe:しているのか。
ゼロからはじめるわけではない、いやこれはヲタク特有のジョークというわけではなく、本当にゼロからはじめることはできない。
なぜなら、愛はなくならないからだ。
この映画は何をしても消えてくれない愛、その悲劇とそして希望を扱っている。
その話をするに当たり、まずはここたまとはなんだろうか、という事を改めて確認する必要がある。
それは所謂九十九神とは違うのか。
公式設定には「人間の大切に使った物への想いから生まれる」とある。
そしてたとえ持ち主が変わっても問題ないし(ウケローの例)、形が変わってしまっても同一のここたまとして存在できる(クルンの例)
。また持ち主と言える人が居なくても構わないようだし(パタリーナの例)、自らさすらうここたまもいる(ゆっきーの例)。
どうも一度生まれた以上は現在の母体、つまり色鉛筆やピアノの状態は問われないようだ。あくまでもその物との関係性、楽しかった記憶から生まれた精霊、それがここたまなのである。
だから我々がこころちゃんの心労をおもんばかって「色鉛筆を捨てよう」と提案しても、それは無駄なのだ。一度生まれたここたまはそんな事では消えない。非常に残念だ。そしてそれこそがクルンのエピソードでは希望となったし、劇場版では悲劇として描かれた。
ここたまを生むような強い想い、それは愛としか名付けようがない。
愛からここたまが生まれ、見習いここたまがハッピースターをつくり、一人前のここたまはそれを人間に再び還す。
それは究極のリサイクルだ。しかしその循環がもし途絶えてしまったら?
まいちゃんとテップルというミニマムな関係性から人間とここたまというマキシムな関係性まで発展するこの映画は、その愛のリサイクルの断絶が誰の身にも起こり得る、もう経験しているかもしれないと我々に囁いてくる。
それはこころちゃんにだって例外ではない。
こころちゃんもいつかは緑色の色鉛筆を必要としなくなる時がくるかもしれない。
それは恐ろしい想像だが、きっと人生のどこかで思い知る。
だからこそ、映画のクライマックスでこころとラキたまは全人類の罪深さ、愛の循環を忘れてしまうという人間の愚かさを濯ぐために儀式を行う。
世界中の大好きを受け止めて、また再び世界に放射する。それはここたま界が担っているリサイクルのシステムをたった2人で行おうというものだ。
しかしそれは諸刃の刃。大好きの分だけ裏返った呪いも大きくて、それに耐えきれないとのみこまれてしまう。
けれどこころちゃんとラキたまは信じ切った。
互いの愛の循環は途切れることはないのだと高らかに宣言する。
「ずっと一緒だよ」
この言葉が嘘になるかどうか、それは分からないし、おそらくこのアニメで描かれることはけしてない。
だが、信じる者は救われる。私は信じたい。かつて愛の循環をなくしてしまった我々もまた、ほんの小さな事でも良いのだ、新しい循環のひとつとなることで、世界規模でも愛は循環すると、人間の世界もまだまだ捨てたもんじゃないと証明していけると。
これは救済だ。愛のリサイクルを再びはじめるための新約聖書である。
つまり、こころちゃんは大天使であり救世主にして神、三位一体の存在であり、すべては四葉ココロエルの御心のままに・・・・って、結局はここに帰ってきてしまったw
ところでテップルの呼びかけに応えたハッピースターが本当にまいちゃんの物だったのかについては、それは永遠の謎である。
しかし誰の物かはこの際重要ではない。大切なのは、テップルもまいちゃんのハッピースターを探していたが、あのハッピースターもテップルを探していた、ということだ。
より踏み込んで言えば、あの名もないハッピースターは「自分を探しに来てくれる存在を待っていた」、私たち大人がいつしかどこかに置いてきてしまった「たいせつなものとの記憶」である。
例えばそれは時代遅れのゲームソフト、4巻だけ失くしてしまった漫画、聴かなくなったCD、誇りをかぶったエレキギター、空気の抜けたサッカーボール、さび付いた自転車、物置にしまいこんだお雛様・・・数々の愛の面影。
ああ、はっきりと言おう。
あの星は私が失くした心のような気がする。
どうしても、そんな気がするのだ。
私にとって映画ヒミツのここたまは、かつて存在し、そして今もそこから呼んでいる、たいせつなものの死と再生の物語なのだ。
統計上の女児のアイドルタイム
2014年 7月5日、午前10時。
さして期待もせずにその番組にチャンネルを合わせた。
「お洒落なあの子真似するより、自分らしさが一番でしょ」
…なるほど、オンリーワンを目指す系の話か…キャラクターは可愛いし、森脇真琴という監督はあのお願いマイメロディを手がけた人だ、つまらないという事はないだろう、アイドル物は苦手なんだけどな、主人公の声は実際のアイドルなのかな大丈夫なんだろうか、なんだ作画は外注なのか…不安だな、いきなりCGかぁ…昔と比べて進化したとは言えあんまり多用は好きじゃない…、おいおいEDは実写なのかよこりゃあかんわ、…とりあえずぷりぷり言ってる子だけは無いな。
これが第1話を見たときの率直な感想であった。
それがプリパラとの出会い。
それがどうしてこうなった\(^o^)/
気が付けば毎週土曜そして金曜(ニコ生版)が何にも替えがたい特別な時間となり、人の目を気にしながら筐体デビューし、やがてそれも慣れ、薄い本欲しさに人生で初めてコミケというものに参加したり、アニメのライブイベントという現場がどういうものなのかを肌で感じ、コールとかミックスとかいう異次元の単語を覚え、サイリウムという物質をまさか自分が降る事になるだなんて・・・あの日の自分に教えたらどんな顔をするか。
そう、プリパラをこんなに好きになる予定は、実は私の年表にはなかったはずなのだ。
もっと若い時分、「人間、どこでどうなるか分からないものだよ。」と大人な人たちに諭されては「そんなもんかね」と斜に構えていたけれど、いまなら確信を持って言える。人間、どこでどうなるか分からないものだね。ソースは俺。
それにしても本当に、楽しい思いをさせて頂いたと思う。
ちょっと世間様には顔負けできないような、統計上の女児として生きた季節。
そもそもプリパラをする人はみな女児であるという概念が広まったのはいつの頃からだったか。たしか100万ユーザー突破の際に「ターゲット層が全員ユーザーになった計算になる」などと本気なのかギャグなのか公式が発表した事を受けて「プリパラユーザーは女児に換算される=我々も女児」とごく当たり前のように拡大解釈されたように記憶している。
それまでも、子供向けアニメを見ている自分を揶揄して「〜児です」とやや自嘲気味にアピールするのはいわば我々の業界での作法であったが、この場合それとは少し趣きを異にする。
プリパラをしているという事は、プリパラアイドルである事は、揶揄ではなく事実として即ち女児なのである。
ではここでいう女児とは何か。それはプリチケの届いた者である。いや、初期のころ闇で囁かれた初潮説はもうマスコットの墓場にでも葬ろう。
プリチケとは新しい世界への扉を開くチケットである。 そのことは繰り返し描かれてきた。それを心に宿した瞬間、扉を開くとき、人はアイドルとなる。
実になんでも良いのである、プリチケは。自分らしさを記したものであれば。相手に渡すことのできる自分の証明書でさえあれば。たまたまアイドルを扱うアニメだから、アイドルテーマパークに行くためのチケットとして描かれてきたに過ぎない。
人によってそれは野球のグローブになるかもしれないし、ミニ四駆とかビーダマンとか(世代がバレますね)、バイエルが抜けられないピアノが苦痛とか、天体観測が好きだったり、そういう大小様々な「好きと嫌い」の想い、それがプリチケだ。そう、このアニメを見ている時に生まれる感情も。
しかし私にとってそれは、もしかして憧れよりも羨ましさが強かったかもしれない。
楽しさよりも寂しさを、未来よりも過去を、希望よりも後悔を、夢よりも現実を感じる事の方が多かったかもしれない。
例えば12話で駆け出したそふぃ、18話でレオナが出した答え、25話でよみがえったひめかとシュガーのトモチケ・・・そんなものは夢物語だと思ったし、だからこそ美しいと思った。
友情なんて口に出すのはたやすい。けれどそれを無邪気に信じるにはひねくれて生きてき過ぎた。なにがみんな友達なんだろう。どうやってみんながアイドルなんだろう。それは嘘だ。画面の中の彼女たちに涙を流せば流すほど、現実の自分はどんどん冷えてゆく。彼女たちのような存在になれたら・・・なりたい、なれない。
ああそうだ、私にとっていつだってプリパラは「手に入らなかったもの」の象徴だった。
過去において手にする事ができず、そして未来にも求めることができない、ただ寂寥たる現在からじっと眺めるだけの夢。
それが統計上の女児である私のアイドルタイムだったのだ。
「新シリーズ アイドルタイムプリパラは時間がテーマになります」
1月、その報を聞いたとき、ぎくりとした。
ついに来たか、と思った。
アイドルタイム、転じてidle timeというのは、実のところすぐに察しがついた。
それは子供時代という終わらない夢を終わらせるための物語になるのだろうと。
「時計の針、回そう」
何度も何度も強調されるメロディ。逆回りする時計は存在しない。必ず未来へと進む。残酷なほどに刻一刻と、アレグロ、そしてヴィヴァーチェへと加速する。
そうだ、どんなに素敵な時間も、いつか終わりが来てしまう。
昼から夜へ、夜から朝へ、時計の針を止めても地球は回る。
真中らぁらはいつか中学生になる。ならなければいけない。
それはわかっていたはずだし、その時のためにプリパラを見てきたように思う。
春から夏、秋から冬、そしてまた春へと一巡り。
「ダカーポ」と夢川ゆいは歌う。
それは繰り返しなのか、それとも何かが変わっているのか。
時計が一回りすれば嫌でもはじまる新しいアイドルタイムで、今度はそれを探す夢が始まれば、良いのだが。
<追記> 今回、ツイッターでプリパラ談義に花を咲かせたりする同志の女児カスペルさんが企画された プリパラバーリトゥード Advent Calendar 2017に本文を寄稿させて頂いたり致しました。
もしかして、些細な事ではありますが、これは知らずにアイドルタイムが貯まった結果なのかもしれません。だとすれば、きっと私の時計も進んでいる証拠となりましょう。
最後に昼の精霊の真似をして締めたいと思います。
「カスペルさん、素敵な時間をありがとう。みなさま、よいクリスマスを!(なちゅ!)」
ある女児のいちばん長い日
アイドルタイムプリパラ WinterLive2017、いまだかつてない大激震が我々女児を襲った。
新プロジェクト、プリティーオールフレンズの発表。
その瞬間、会場は異常な空気に包まれた。
どよめき、そうそれはどよめきと呼ぶのが相応しい。
歴代主人公5人がスクリーンに映された瞬間、ある者は春音あいらの名を呼び、またある者は上葉みあを拝み、彩瀬なるの変わらぬ姿に涙する者がいれば、真中らぁらの少し大人びた雰囲気に戸惑う者、夢川ゆいが健在な事に胸をなでおろした者(それ、私です)、それぞれの想いが入り混じった、すさまじい感情の嵐。この空気感はちょっとあの空間にいないと上手く伝わらないと思う。
今思うと、来年度の展開についてはみんな不安だったんだろうと思う。
いつもなら発表されているはずの春映画がないこと、筐体の技術的寿命が近づいているだろうことなど、作品の良し悪し以外の部分で数々のネガティブ材料が揃っていた今回の冬ライブは、「最大規模の会場、最多数の出演者」という景気の良さと裏腹に、なんとなく不穏さを感じずにはいられなかった。まさか・・・という予感。根拠はないからこそ恐ろしい胸騒ぎ。
それだけにプリティーオールフレンズの発表は、まさしく福音であった。しかし同時に、それは新たな困惑と不安をも連れてきた。
プリパラ新シリーズではなく、あくまで新プロジェクトなのだ。
つまりプリティーオールフレンズがどのような物かにしろ、プリパラはアイドルタイムプリパラにて幕を引くという可能性が非常に高い。
これは自分としてはかなり残念ではある。私はプリティーシリーズ全体のファンであるつもりではいるが、やはり狭義的にはプリパラのファンなのだから。そして夢川ゆい氏が握ったおにぎりを食べるまでは死ねないと思っている困ったゆい推しヲタクなのだから。
ぶっちゃけ「なんでだよー、別に人気落ちてないじゃん。てかアイドルタイム最高じゃん、作画いいじゃん、シナリオ完璧じゃん、大事な『格ぅ』もでてきたじゃん!」と言いたいのが本音である。
だが、この事態に妙に納得してしまうところもある。それは前期OP「Just be yourself」、そしてED「アイドル:タイム!!」をはじめて聞いたときに覚えた予感とぴったり合うからだ。
「ぴかぴかゆらゆら未来へ歩く今日は 繰り返しのフリしている夢への道。1秒1秒が過去に変わる今を、全力で愛していこう」
「あたらしいステージで コンティニュー、遊んじゃおう。この気持ち、マイクを通せば、ほらね広がってゆく。時計の針、まわそう。」
奇しくも・・・いやむしろ必然的に、どちらも同じことを歌っている。
「未来へ歩け」 と。
時を戻すことはできない、ここに留まる事もできない。しかし未来で待つステージで、夢のつづきを見る事はできる。
もしかして、最初から答えは分かりやす過ぎるほど明確に示されていて、私たちは都合の悪いそれを見ないふりしてきたのかもしれない。
とにかくも、時計の針は回った。おそらく来年度のらぁらは小学6年生ではない。
我々の時計も否応なしに動き出す。覚悟を決めよう。
サンシャインベルに目を覚ますかは、朝になってみなければ分からないけれど。
動かない時計の物語
いま、アイドルタイムプリパラが面白い。
いや、毎日毎日プリパラのことばかりをうわ言のように呟いている私だ、何を今さらと思われるだろう。
しかし今年度のシーズン、アイドルタイムプリパラはクオリティ、メッセージ性、どちらから見てもこの4年で最高の出来であると自信を持って言える(なんだかボジョレーヌーボーみたいになってるがw)。
まずクオリティに関してはこれはもう明らかで、作画が大幅に向上している。おそらく4期からチーフディレクターにさり気に小林浩輔氏が就任していることと無縁ではあるまい。韓国側スタジオのスキル向上や国内修正体制の充実はもとより、これまで以上に制作と作画との連絡が的確に行われた結果なのだろうと思う。
相変わらず綿密に計算されたシナリオとライバル作品(どことは言わないが)と遜色ないレベルにあがった作画、この二つが合わさる事でいよいよ打倒プ〇キュアが(ユメに夢みるぐらいには)現実味を帯びてきた。
つづいてメッセージ性だが、夢と時間、この二つをメインテーマが、いよいよその全貌を現しはじめた。
神アイドル編が終わり、アイドルタイム編がはじまり、しかしその実質はプリパラZだったわけで、らぁら以外のメインキャラも結局ほとんど続投してるし、ああ一安心…なんて思わせておきながらとんでもない、アイドルタイムプリパラが描いているのは「過去と未来の狭間にある今そのもの」もっと言えば「時計の針を動かせずにいる人」の物語だったのだから。
ファララは寝ぼけた声で真理を説く。まさしく時計の針を動かすのが夢の力なのだ。
そう考えてみると、アイドルタイムプリパラのメインキャラは、ことごとく「時計が壊れている」人たちだ。
夢をパックに食べられていた にの。
夢を右肩に隠していた みちる。
大らぁらにプリパラチェンジできなくなったらぁら(言うまでもなく大らぁらは「早く大人になりたい」という願望の事であった)。
友達の心無い一言から好きだった物を遠ざけるようになったミミ子。
突然何かの揺り戻しであるかのようにプリパラへの興味を失くしたちあ子。
神アイドルになったものの未来への足踏みをしているらしい みあ。
姉とは逆に時計を早回ししたがっているような しゅうか。
そしてしばしば絶対不可侵の夢の中に閉じこもる ゆい。
これらは作中ではそのものとして描かれてはいないが、この人生の生き辛さを暗に示している。
恐らくそれは現実と折り合いをつけた結果として訪れた「今」だ。
誰だって、とめどない夢と限りある現実の中で、ちょうどいい所を探して生きている。
残念なことに未だ二次元世界に行くための発明が為されていないし、霞を食べて生きるほどには徳も積めないので、この現実で生きていくしかない。
現実で生きていくためには夢を忘れてしまうか、ゆがめてしまうか、なかったことにしてしまうか・・・夢を食べるパックは、夢を否定する何者かの暗喩であろうと思われる。それは親だったり、きょうだいだったり、友達だったり、全然知らないTVの向こう側の人や、もしかして自分自身かもしれない。
ガァララとパックに全ての元凶が託されている今作であるが、しかし現実的には何かのきっかけさえあれば、いつでもどこでも起こりうる有り触れた哀しみのひとつが描かれているに過ぎない。
ミミ子が夢を食べられた顛末を思い出して欲しい。順番としては 言葉の暴力を受ける→パックに食べられる だった。それはパック的にはたまたまだったのだけれど、ここに私は意味を見出したい。つまり、夢見る心の傷つきやすさ、夢みることで受ける数々の呪い。
(考察女児の中でにはもっと突っ込んで、みちるは虐待されていたのでは?と仰る方もいる。雑巾プレゼントを写真に収めている事から。私も同感である。だがその点、今作は暗くなりすぎそうな事からは巧みに答え合わせを避けている。未だに各キャラの家庭事情が不明なのは、何が原因でこうなったか、をあまり掘り下げないで済むように機能している)
実は夢を忘れずにいた ゆいですら、夢を持つことによる呪いから自由ではいられない。
あっけらかんとしているような彼女は、しかし実は自分の夢見がちな性格が周囲からどう扱われているか十分知っているようでもある。(34話が詳しい)
第1話を思い出して欲しい。彼女はらぁらがクラスメイトからチヤホヤされるのを遠巻きに見ていた。すずはなもその輪に参加しているのにも関わらず、だ。
そこには自分だけの夢を持ちつづける事の孤独が感じられる。
しかしそれは特別な事ではないのかもしれない。
誰だって一度見た夢を忘れきれるわけはなく、たとえ否定されて心に押し込めたとしてもそれはずっと自分を呼んでいる・・・ミーチルがみちるにメッセージを書き続けたように、にのが困ってる人はつい手助けしてしまいたくなるように。
だから、だから哀しいんだ。失くしても、思い込んでも、消えてはくれない。それが夢なのだ。それは宿命のアザだ。誰もその宿命から逃れることはできない。
「俺たちが目指すのは勝者じゃなく勇者だろ」と誰かが言った。宿命に立ち向かう事が勇者であるなら、それはなんと強い心のいることか。
夢のない街、パパラ宿はもしかして私たちが生きているこの街の事かもしれない。
2年9ヶ月ものあいだ、夢の中でパラ宿という街にいた我々が、本当に生きていくべきなのは実はパパラ宿の方なのだ。
我々の止まった時計も、そろそろ動かさなければならないのかもしれない。
すべてを見終わったとき、我々の前にあるのは夢のつづきか、それとも目覚めのサンシャインか。
いま、再びこの歌詞を噛みしめる。
「ぴかぴかゆらゆら未来へ歩く今日は、繰り返しのフリしている夢への道。1秒1秒が過去に変わる今を全力で愛していこう」
確かなことは、これは未来に行くための船だろうということだ。どのような未来であっても、「今」にとどまることはけしてできない。
いま、アイドルタイムプリパラを見るのが怖い。